第四十四話「ぬっぺふほふの料理」
厨の方から、いい匂いがしてきた。
夜が明けて間もない刻限で、屋敷はまだ静かだった。使用人たちが動き始める前の、あの中途半端な静けさだ。我は縁側の端に座り、庭の霜が溶けるのを眺めていた。
匂いが、おかしい。
朝餉の支度には早すぎる。それに、この香りは我の知るどの料理番のものでもない。根菜を炒めた後のような、くっきりとした油と土の気配だ。何かが、厨に入りこんでいる。
我は縁側から庭に降り、厨の方へ回った。
*
引き戸の前に立つと、音がした。
鍋の音。包丁が板を叩く音。そして何か、歌うような——歌うというよりは唸るような低い声。節はあるのだが、言葉になっていない。
目を細めた。
土の理が、ほんのわずかに反応している。生きているが、人ではない。大きさは人ほどある。匂いは——料理だ。料理だが、人の料理とは微妙に違う。香辛料の使い方が独特で、どこか南の島の香りに似た何かが混じっている。
我は引き戸を前足で引いた。
*
中に、それはいた。
丸い。
全体として、非常に丸い。
人の背丈ほどある、白っぽい肉塊——と言えばよいか、それとも何かで膨らんだ袋——と言えばよいか。表面はつるつるとしていて、人の素肌に似た質感を持っている。腕らしいものが前に伸びていて、その先に指のようなものがある。顔はどこにあるのか分からないが、何かを見ているらしい。
そいつは、大根を刻んでいた。
手つきが、悪くない。包丁を持つ角度が安定していて、大根が均一な薄さで並んでいく。鍋の中に何か赤い実が入っていて、湯気が細く立ち上っている。
我はしばらく扉のところで、それを見ていた。
やがて、その塊がこちらを向いた——向いた、というのも確かではないが、気配がこちらに向いた。
「んうぅ」
と、低く言った。
我は一歩、後ろに退いた。
「んうぅうぅ」
それは再び言い、包丁を持ったまま前傾みになった。敵意はない。どちらかというと、戸惑っている。
我は土の理を薄く広げた。確かめるためだ——悪意の気配はない。この屋敷を傷つけようとする意図もない。ただ、料理をしたかった。そういう、単純な気配だけがある。
さて、と我は考えた。
*
「にゃあ」
座敷童子が、厨の天井の梁から顔を覗かせた。
この小さな守護者は、我が来たのを察してどこかから現れたらしい。我が視線を上げると、童子は梁の上でちょこんと座り、愉快そうに足をぶらぶらさせていた。
「ぬっぺ、来た」と座敷童子が言った。
「んうぅ」とぬっぺが答えた。
二人は、旧知らしい。
我は座敷童子を見上げた。問うように目を細めると、童子は指を折り始めた。「去年の冬から。ときどき来る。残り物、片付けてくれる」
我は鍋の方へ視線を向けた。童子はそれを読んで、続けた。「全部食べる。ちゃんと火を通して。美味しく食べる」
我は塊を改めて眺めた。なるほど、鍋の中には昨夜の夕餉の残りらしき野菜が入っている。捨てるつもりで端に寄せてあったものを、拾い集めて調理している。
理にかなっている、と我は思った。
*
問題は、真白の料理番——名を蕗という壮年の女性だが——が来た時だ。
蕗は真白の屋敷で二十年以上働いており、厨を自分の城と思っている節がある。朝の支度で最初に踏み込むのが習慣で、おそらくあと四半刻もすれば来る。
我は座敷童子を見た。それから、外の気配を確かめるように耳を立てた。
「でも、まだ料理、途中」と座敷童子が言った。我の意図を読んだらしい。
「んうぅぅ」とぬっぺが言った。悲しそうだった。
我は考えた。
この屋敷に利害をもたらしていて、悪意もない——追い出す理由は薄い。だが、人間の料理番が白い肉塊と厨で顔を合わせれば、どういうことになるかは想像に難くない。
我は縁側の方に戻り、外を確認した。霜はまだ残っている。蕗の足音はまだ聞こえない。
我は尻尾を一度、厨の奥に向けて振った。それで伝わったらしく、ぬっぺが動きを速めた。我は鍋の前に陣取った。土の理を薄く足元に敷き、この場の気配を少しだけ「日常の続き」に見えるよう整えた。完全ではないが、人間が感じる違和感を鈍らせる程度の効果はある。
「んうぅ」とぬっぺが言い、素早く大根を仕上げた。
信じられないことに、早い。
*
蕗が厨に来た時、ぬっぺはいなかった。
鍋の中には、見覚えのない煮物が出来上がっていた。大根と残り野菜と、赤い実がいくつか入った、香り高い一品だ。
蕗は扉を開けたまま、鍋を眺めた。
「誰が……」
我はそばの棚の上から眺めていた。
蕗が鍋の蓋を開け、匂いを嗅いだ。眉が動いた。次に、木の匙で少し救って、口に運んだ。
長い沈黙。
「うまい」と蕗は言った。
我は毛づくろいをした。
*
その夜、真白が夕餉の席で首を傾けた。
「蕗が今日、いつもと違う煮物を作ってくれたのだけど——いつもより美味しかった気がして。何か変えたのかと聞いたら、自分でも分からないって」
「にゃあ」
「玄丸、何か知ってる?」
我は真白の膝の上で目を細めた。
「にゃあ」
「……そういう顔をする時は、何か知ってるのよね」
真白が笑った。我の首の後ろを軽く撫でた。今夜の真白は、表情が少し柔らかかった。五日後の話を、忘れているわけではないだろう。ただ、今この時間は——この屋敷の、食事の匂いがする時間は——そういうことを少しだけ脇に置いておける、そういう顔をしていた。
それでいい、と我は思った。
備えるべき時は備えるとして、今夜の温もりを無駄にすることもない。
「また来るかしら、その誰か」と真白が言った。玄丸の背を撫でながら、独り言のように。「来たなら、ちゃんともてなしてあげたいわ」
我は喉の奥で小さく鳴いた。
座敷童子は、この屋敷に幸を運ぶと言う。ぬっぺふほふが何を運ぶかは知らないが、少なくとも今夜、蕗は得意顔で料理を盛りつけていたし、真白は笑っていた。
我は目を細め、真白の膝の温もりに身を預けた。
【妖怪図鑑】
■ぬっぺふほふ(ぬっぺっぽう)
【分類】肉体妖怪(無形系)
【危険度】★☆☆☆☆(低)
【レア度】★★★☆☆(稀)
【出現場所】廃墟、古い寺の境内、人気のない厨など
【特徴】
人の肌に似た白っぽい肉塊の妖怪。顔の位置が分かりにくく、腕と思われる突起で物を掴むことができる。独自の料理の才を持ち、残り物の食材から風変わりだが美味な料理を作るとされる。悪意はなく、傷つけることもほぼないが、その見た目の異様さで人を驚かせる。
【得意技】
・料理:残り食材を無駄なく使い切る。香辛料の使い方が独特
・残飯処理:有機質のものを清潔に食べ尽くす
【弱点】
・外見が独特すぎて人間に受け入れられにくい
・コミュニケーションが「んうぅ」と「うぅ」のみで語彙に難がある
・光や火を嫌う(完全な弱点ではなく、苦手な程度)
【生態】
独居性で、縄張りはない。食材があればどこにでも現れ、調理して食べる。残り物を好む傾向があり、人間の厨の残飯が特に好みとされる。座敷童子などの屋敷妖怪と意外と親和性が高い。
【玄丸の評価】
「見た目と気配だけで判断してはならない、という好例だ。悪意の気配はゼロで、やっていることは残飯の有効利用という、まことに実用的な話である。我としては、この屋敷に継続して出入りするならば、蕗に見つかった時の対処法だけ考えておいてほしいと思う」
【遭遇時の対処法】
基本的に放置で問題ない。驚かせると逃げ去る。食材を用意すると定住する可能性がある。
【豆知識】
江戸時代の妖怪画集にも描かれており、「のっぺっぽう」「ぬっぺらぼう」と混同されることがあるが別種。ぬっぺらぼうが顔のない人型であるのに対し、こちらは肉の塊に近い形状。なぜ料理の才があるのかは謎とされる。




