第四十三話「実俊の協力」
実俊が来たのは、翌日の昼過ぎだった。
前触れはなかった。使用人が玄関先で声を上げ、真白が廊下を小走りで向かうのを、我は廊下の端から眺めた。小走り、というのが珍しい。真白は慌てる姿をあまり人に見せない。
玄関口で二人が短く言葉を交わし、実俊が屋敷に上がった。表情がいつもと違う。あの男が陰陽寮の仕事で走り回った後に見せる、ある種の硬さだ。
真白が我を目で探した。廊下の端にいると分かると、軽く頷いた。
*
座敷に通してからも、実俊はすぐ本題に入らなかった。
茶を受け取り、少し飲んで、それから口を開いた。
「ここ五日で、また三件です」
「言葉を失った方が?」
「はい。いずれも東の市の近く、夜更けから明け方の間。先月からの合計は十三件になりました」
真白が茶碗を両手で包み、膝の上に置いた。
「増えているのね」
「増えています。そして、これまで被害に遭った方の話をもう一度確かめたところ——一つ、気になることが分かりました」
あの男が我を見た。我は柱の根元に座っていた。実俊と我が視線を交わすのは、これで何度目だろう。この男は、視線を向ける時の角度がいつも正確だ。猫を見る角度ではない。何かを確認する時の目だ。
我は毛づくろいをする素振りで、顔を逸らした。
*
「記憶を封じられているとお伝えしましたね。近づいた夜のことを、言葉にしようとすると詰まる、と」
「覚えています」
「あれを、もう少し丁寧に聞き直しました。言葉が出なくなるのではなく——言葉を探してもない、のだそうです」
真白が顔を上げた。
「言葉が出てこない、ではなく?」
「語るべき言葉が、そもそも存在しない、という感覚だと言います。怖かった、驚いた、逃げた——そういう経験の輪郭は残っているのに、それを指し示す言葉だけが、抜けている」
座敷に、炭の爆ぜる音だけが残った。
我は毛づくろいの手を止めた。
抜けている。言葉だけが。
それは、奪われた経験と同じではないか——という考えが過ぎった。あの残響の中で聞いた「もう、声が——」という途切れ方。生前に言葉を奪われた女が、今また他者から言葉を抜いている。奪われた者が、同じことをしている。
意図的に奪っているのではないかもしれない。ただ、声を失った存在の近くにいると、言葉が消える。
それが理であるとすれば——その理を逆手に取ることができれば——
「玄丸」
真白の声で我は我に返った。
「難しい顔をしている」
「にゃあ」
実俊が小さく息を吐いた。
「……なぜ猫が難しい顔をするのか、私には分かりませんが」
「分かるわよ、慣れれば」
「慣れたくはありません」
真白がかすかに笑った。こういう、重い話の中の短いやり取りが、真白と実俊の間にはある。我がどこにもない類の空気だ。
*
「もう一つ」と実俊が続けた。
「陰陽寮で古い記録を漁りました。都の記録ではなく、各地から集まった異変の報告書です。遡ること八十年ほど——似た怪異の記録が一件あります」
「八十年前に」
「はい。同じく夜更けに白い影が目撃され、近くにいた者の言葉が消えたと。ただし、その時は自然に収まっています」
「どのように?」
「詳細は分かりません。ただ——収まった日の記録に、一行だけ添え書きがあります。『歌を詠む者、近傍にあり』と」
真白が、ゆっくり目を閉じた。
実俊がそれを見て、眉を寄せた。
「真白殿」
「……分かっている。私が行く、と思っているでしょう」
「思っています。そして、反対します」
「知っていたわ」
「これは命令ではありません。陰陽寮の判断でも、家の方針でもない。私個人の——」
「実俊さま」
真白が目を開けた。
「分かっています。あなたが心配してくれていることは。でも、あの方に言葉を返せるとしたら、私にしかできないことだと思っています」
実俊が黙った。
*
沈黙が、少し長かった。
我は二人のやり取りを、柱の根元から見ていた。実俊の横顔は、今この瞬間、陰陽師見習いの顔ではなかった。何かを言おうとして、言葉を選び直している。
「……一つだけ聞いてもよいですか」
実俊が、真白ではなく我を見た。
我は動かなかった。
「この猫は、夜に出かけていますね」
「にゃあ」
「何度も」
「にゃあ」
「あちらへ」
我は答えなかった。
あの男が、また真白を見た。
「玄丸が傍にいる、ということですか」
「一緒でなければ行かないと言っています」
「言っています……」
実俊が我を見た。今度は、あの「確認する目」ではなかった。名前をつけにくい表情だった。
「……分かりました」
あの男が、ゆっくり座り直した。
「反対は続けます。ただ——止められないとも分かっています。であれば、少しでも安全に近づけるための情報を集める方が、意味があります」
「実俊さま」
あの男は「私にも何かさせてください」とは言わなかった。ただ、傍らの文机から懐紙を取り、何かを書き始めた。
我はその横顔を、少し眺めた。
この男が真白を守ろうとしているのは、初めからそうだった。方法が違う。理屈が違う。だが、向かっているものは同じだ。
「にゃあ」
実俊が書く手を止めずに、答えた。
「猫に礼を言われるとは思っていませんでしたが——まあ、そういうことにしておきます」
真白が、声を上げて笑った。
*
実俊が書いていたのは、目撃者から集めた証言の整理だった。
出現の時刻。場所の傾向。直前の気候と月の満ち欠け。被害者の年齢と性別。その中で実俊が傍線を引いていたのは、月齢の欄だった。
「目撃が集中しているのは、月が半分以上満ちている夜です。満月の三日前後が最も多い」
「次の満月は」
「五日後です」
我は耳を立てた。
五日。
実俊はそれ以上続けなかった。続けなかったことの重みが、座敷の空気に少し残った。
真白が懐紙を受け取り、記された内容を読んだ。読みながら、唇がわずかに動いた。詩を読む時の、あの癖だ。言葉を口の中で転がす。
「ありがとう、実俊さま」
「役に立つかどうかは分かりません」
「役に立ちます」
真白が懐紙を丁寧に畳んだ。
彼が立ち上がる前に、もう一度我を見た。今度は長くはなかった。一瞬だけ視線をよこして、そのまま座敷を出た。
言葉はなかった。
我も何も言わなかった。
視線だけが、ひと呼吸ぶん、重なった。
*
あの男が帰った後、座敷には真白と我だけが残った。
真白は懐紙をもう一度広げて、月齢の欄を指先で辿った。
「五日後」
「にゃあ」
「準備が要るわね」
我は毛づくろいの手を止めたまま、真白の横顔を見ていた。
「怖いかって聞かないの?」
我は少し間を置いた。
「にゃあ」
「……ふふ」
真白が懐紙を閉じた。
座敷の外で、風が立った。冬の終わりの気配を持つ風だ。まだ冷たいが、どこか薄い。春が遠くにある、という風。
五日後。満月の前後。
用意できるものと、用意できないものがある。どちらがどれだけあるかは、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
一人で行かせない。




