第四十二話「真白の決意」
あの歌に、下の句が加わっていた。
気づいたのは、昼過ぎのことだ。真白が文机を離れて母上の部屋へ向かった隙に、我は机の上を覗いた。几帳の陰から差し込む冬の光が、紙の上の墨字を浮かび上がらせている。
「声持たず 夜に揺れゐる 白き影 言の葉ひとつ 返してあれな」
下の句が、できていた。
「言の葉ひとつ、返してあれな」。
言葉をひとつ、返してやってほしい——と、そう詠んでいる。
我は少し、その紙から目を離せなかった。
*
真白が戻ってきた。我が机の前に座っているのを見て、特に驚いた様子はなかった。
「読んでいたの」
答えようがない。我は机の端から一歩退いた。
「下の句、できたわ」
真白が机に腰を下ろし、その紙をもう一度眺めた。声に出して読むでもなく、ただ見ていた。
「あの方のこと、玄丸は何か知っている?」
我は少し間を置いた。
「にゃあ」
「そう」
真白は我を見た。責めているのではない。ただ、確認している。
「知っていたのに、教えてくれなかったのね」
「にゃあ」
「怒ってないわよ」
真白が静かに言った。
「ただ……もう少し早く聞けばよかったな、と思っただけ」
*
我は、真白の前に座ったまま考えた。
口無し女の正体について、どこまで話すべきか。生前の記憶の断片から読み取ったこと——権力ある者に歌を禁じられ、声を奪われた女。「返して」という懇願。それを真白に話せば、真白の中で何かが動く。
すでに動いている、というのが正確かもしれない。
あの歌がそれを示している。
「言の葉ひとつ、返してあれな」。
真白は我が夜に出かけていることを知っていて、何も聞かなかった。我が怨霊の近くまで行っていることも、おそらく察している。そして今日、下の句を書いた。
察した上で、詠んだのだ。我は喉の奥で小さく鳴き、真白が顔を上げた。
「話してくれる?」
「にゃあ」
*
話せないことは多い。我には声がない。
だが、真白には我のことが、猫の鳴き声以上に伝わる部分がある。言霊感応の素質がそうさせるのか、それとも長く一緒にいたせいなのか、どちらかは分からない。
我は縁側のほうへ歩いた。外を見た。
東の方角。
真白が隣に来た。我と並んで、同じ方角を見た。
しばらく、二人とも黙っていた。
冬の庭は静かだ。松の枝が、風もないのにわずかに揺れている。池の鯉は沈んでいて、水面だけが灰色に光っている。
「あちらに、いるのね」
問いではなかった。確認でもなかった。
ただ、知った、という声だった。
我は尾をわずかに動かした。それで十分だった。
真白が、膝の上で手を組んだ。
「怖くないとは言えないわ」
「にゃあ」
「でも、ほうっておけない」
*
我は真白の横顔を見た。
怖くないとは言えない、と彼女は言った。それは正直だ。怖いと知りながら、それでも、という話をしている。
「呼ばれているような気がする」と最初に言ったのは、もう何日も前だった。我が止めようとした。実俊が「近づかないでください」と念を押した。真澄が「姫君を遠ざけよ」という意を示した。
三者が揃って牽制して、それでも真白の中にある何かは、動いたままでいる。
理で押さえられないものがある。
これが「情の理」というやつか、と、我はぼんやり考えた。
アルメラ(異世界)にいた頃、我はそういうものを「非合理」と切り捨てていた。計算に乗らない意の動きを、我は理論の外に置いていた。
だが、今目の前にあるのは、その非合理が示す道だ。
我は前足で縁側の板を一度だけ踏んだ。
真白が我を見た。
「反対する?」
「……にゃあ」
少し間があった。それが、反対だという声だと、真白には伝わったようだった。
「そうよね」
真白は頷いた。我の反対を受け取った上で、続けた。
「でも、行くわ」
*
行く、と言った時の真白の声は、静かだった。
宣言するような力強さではなかった。叫ぶでも、言い張るでもなかった。ただ、当たり前のことを確認するような、落ち着いた声だった。
我は真白を見た。
真白は庭を見たまま、こちらを向かなかった。
「あの方が求めているのは、声でしょう。言葉でしょう。それを返せる人間が近くにいるとしたら——私しかいないような気がするの」
我は何も言えなかった。言えない、ではなく、言う言葉がなかった。
「玄丸には分かるでしょう。あなたはもう、あちらへ何度も行っている」
我は答えなかった。答えられなかった、というのが正確だ。
「言葉を奪われた人が、声を求めている。言葉を持つ私が、怖いからといって行かないでいる」
真白の手が、膝の上でわずかに動いた。
「それは、おかしいでしょう」
*
反論を探した。
危険だ——これは事実だ。近づいた者が言葉を失うという記録がある。真白の言霊感応が強ければ、影響はさらに大きくなる可能性がある。
しかし。
口無し女は我を攻撃しなかった。我が声をかけると、揺れた。金の理の膜に、あの存在は反応した。「返して」という声が届いた。
言葉を奪うのは、意図的な攻撃ではないかもしれない、という推測は、今もある。
真白が行けば——言霊感応を持つ真白が、言葉を持って近づけば——何かが動くかもしれない。
しかし、それは「かもしれない」だ。確かめる方法はない。
我は真白を見た。真白はまだ庭の方を向いていた。
「分かってる。あなたが心配しているのは分かってる」
真白がようやく、こちらを向いた。
「一人では行かない。玄丸が一緒なら、行く」
*
あなたが一緒なら、行く。
あなたが一緒なら大丈夫、とは、言わなかった。
大丈夫かどうかは分からない、という意味で、あえてそう言わなかったのかもしれない。あるいは、単純に真白らしい言い方だったのかもしれない。
どちらにせよ、我はその言葉を受け取った。
拒む言葉がなかった。猫の体では、言葉など持ち合わせていない。「にゃあ」か「にゃあ」か、それだけしかない。
だが、今この「にゃあ」に込めるべきものが何かは、分かっていた。
「にゃあ」
真白が、ほんの少し、表情を和らげた。
「……ありがとう」
我は真白から目を逸らして、庭を見た。
松の枝が、また揺れた。今度は、風があった。
冷たく、細い、冬の風。
それだけだった。




