第四十一話「豆腐小僧の配達」
厨の方から、真白の声がした。
「えっと……ここに置けばいいですか」
次いで、聞き慣れない声。
「……はい」
高くもなく低くもない、ぽそぽそとした声だった。我は縁側から顔を上げた。
屋敷の中に、知らない気配がある。
*
厨を覗いてみると、そこには見慣れない来客がいた。
背丈は真白の腰ほど。頭に大きな編み笠をかぶり、両手で木の盆を捧げ持っている。盆の上には四角い白いものが乗っていた。豆腐だ。
小さな体の割に、豆腐の量は多い。盆がたわんでいる。
「豆腐小僧さん、でしたね」
真白が言った。
「……はい」
「この豆腐、どうされたんですか」
「……お届けに来ました」
「誰かに頼まれたんですか」
「……いいえ」
真白が少し首を傾げた。
*
話を整理すると、こういうことだった。
豆腐小僧というのは、大きな笠をかぶった子供の姿の妖怪で、豆腐を持ってふらふらと歩いている。人間に驚かれたり怖がられたりすることもあるが、特に危害を加えるわけでも、何かを要求するわけでもない。ただ、豆腐を持ち歩いている。
「頼まれてもいないのに届けに来た」というのが今回の状況らしく、真白はそれを既に受け入れていた。真白という人間は、こういう場面での順応が妙に早い。傘化けの時も、一反木綿の時も、驚いた後は「そうですか」と前を向く。
我はその辺りを、以前から不思議に思っていた。
「食べてみますか」
真白が言った。
豆腐小僧が笠の陰から、盆を少し持ち上げた。差し出す、というより、確認させる、という動きだった。
「いただきます」
真白が、ためらわずに受け取った。
*
豆腐は、良い豆腐だった。
我は縁側に戻って毛づくろいをしながら、厨の方を時折眺めた。真白が豆腐を切って料理番のおよねに渡し、およねが鍋に火をかけている。豆腐小僧は厨の入り口で、盆を持ったまま立っていた。
座ればいいのに、と思ったが、声がないので言えない。
「玄丸、あなたも来る?」
真白が呼んだ。
「にゃあ」
我は縁側から降りて、厨の方へ歩いた。豆腐小僧が笠の陰から我を見た。目が合う。丸い、黒い目だった。
「猫……」
「にゃあ」
豆腐小僧がわずかに後退した。
「大丈夫よ、この子は優しいから」
真白が言った。
根拠のある言葉かどうかは置いておく。
*
汁物ができるまでの間、我は豆腐小僧を観察した。
背は低い。笠が大きすぎて、顔の下半分しか見えない。着物は地味な色で、草履を履いている。盆を持つ手はずっと同じ姿勢を保っていた。重くないのだろうか、とも思ったが、長年やっていれば慣れるのかもしれない。
「いつも一人で配達しているんですか」
真白が聞いた。
「……はい」
「遠くから来られたの?」
「……少し」
「屋敷を間違えたりはしませんでしたか」
「……いいえ。ここに来たかったので」
「ここに、来たかった」
真白が繰り返した。
豆腐小僧は盆を少し下げた。肯定の仕草に見えた。
「なぜ?」
「……なんとなく」
*
なんとなく、とは理由になっていないようで、それ以上追求する気にもならなかった。
我は少し考えた。
豆腐小僧というのは、存在理由が不明確な妖怪だ。豆腐を配る。ただそれだけ。怪異を起こすわけでも、何かを求めるわけでも、守護するわけでもない。ただ豆腐を持ってふらふらと歩き、時に人の前に現れる。
なぜそうするのか、という問いに「なんとなく」と答えるのは、ある意味正直だ。
理由がある行動だけが意味を持つ、という考え方がある。我はかつてそう信じていた。目的のない行為は浪費だ、と。
だが、傘化けは「悲しかった」と言った。河童の子供は溺れているのを助けられただけで、以来魚を持ってくる。そういう関係が、都のあちこちにあった。
理由を問うと、たいていは「そういうものだから」か言葉にならない沈黙が返ってくる。
それは弱い答えだろうか。
我には、最近そうは思えなくなっている。
*
汁物が出来上がった。
およねが椀に盛り、真白が受け取った。豆腐小僧の分も、小さな椀に用意されていた。
「どうぞ」
豆腐小僧が盆を傍らに置いて、椀を受け取った。笠の陰から、ずずっと吸う音がした。
「おいしい……」
ぽそぽそとした声が、少しだけ違う響きを持った。
「よかった」
真白が微笑んだ。
我は縁側で、日向に座った。冬の陽光は斜めで、あまり暖かくない。だが、ないよりはましだ。
豆腐の汁物の匂いが、庭まで漂ってくる。白く柔らかい豆腐が、鍋の中で静かに揺れていたのを、さっき厨から見ていた。
*
「また来てもいいですか」
帰り際、豆腐小僧が言った。
これまでの「……はい」や「……いいえ」より、少し長い言葉だった。
「もちろん」
真白が答えた。
「豆腐、また持ってきます」
「ありがとう。でも、手ぶらで来ても大歓迎よ」
豆腐小僧が笠の陰で、何かを考えているようだった。
「……手ぶらは、難しいです」
「どうして?」
「豆腐を持ってこないと、来る理由が……」
真白がしばらく黙った。
「あなたが来てくれること自体が、うれしいのよ」
豆腐小僧の手が、盆の縁をぎゅっと握った。
それが何を意味するのかは、笠の陰では分からなかった。
*
豆腐小僧がひょこひょこと門を出ていくのを、我は縁側から見ていた。小さな後ろ姿が、路地の向こうに消える。
真白が隣に腰を下ろした。
「面白いものね」
「にゃあ」
「豆腐を届けることが生きがいで、でも手ぶらで来る方法が分からない」
「にゃあ」
「でも今日、ちょっとだけ分かったと思う。来てもいいって言われたのが、うれしかったみたい」
我は真白の横顔を見た。
真白は豆腐小僧が消えた方を、まだ見ていた。
豆腐を届けることが生きがい。頼まれてもいないのに。誰かに必要とされているかどうかも、よく分からないのに。それでも届けに来る。
声を奪われた女が「返して」と言い、豆腐小僧が「来る理由」を探している。
我はその二つを、今日は並べて考えなかった。並べてしまうと、何かが崩れるような気がしたから。
ただ、冬の傾いた日差しの中で、真白が「うれしかったと思う」と言った声を、我は聞いていた。
【妖怪図鑑】
■豆腐小僧
【分類】器物妖怪・童子系
【危険度】★☆☆☆☆(無害)
【レア度】★★☆☆☆(市中でまれに目撃)
【出現場所】夕暮れ時の路地、市の近く、人の集まる屋敷の周辺
【特徴】
大きな編み笠をかぶった子供の姿の妖怪。両手で盆に乗せた豆腐を捧げ持ち、とぼとぼと歩く。外見は不気味に見えることもあるが、人間に危害を加えることは全くない。
豆腐を見せてくるだけで、特に何かを要求するわけでも、呪いや怪異をもたらすわけでもない。妖怪としての能力や目的が不明確なことから、妖怪研究家の間でも「最も謎の多い妖怪のひとつ」とされている。
笠が大きすぎて表情が見えにくい。その分、手の動きや姿勢に感情が出やすい。盆をぎゅっと握ったり、少し前のめりになったりと、小さな変化が彼の内面を伝える。
【得意技】
・豆腐配達:頼まれてもいないのに豆腐を届ける。断られることも多いが、めげない
・静かな存在感:いつの間にかそこにいる。音を立てずに現れる
・長距離歩行:小さな体で驚くほど遠くまで歩く
【弱点】
・「手ぶら」での行動が苦手。豆腐を持っていないと落ち着かない
・断られると少しの間その場に立ち尽くす(悲しんでいるのかもしれない)
・笠が大きいため、風の強い日は大変そうにしている
【生態】
なぜ豆腐を配るのか、誰も正確には知らない。豆腐小僧自身に聞いても「なんとなく」という答えしか返ってこない。
受け取ってもらえた豆腐は、不思議なほど美味しい。良質な大豆から丁寧に作られたような味がするが、どこで手に入れているのかは不明。
受け取ってくれた家には、その後しばらく「なんとなく居心地のよい日々」が続くと言われる。これが豆腐小僧の及ぼす唯一の影響であり、害ではなく微かな恩恵だ。
【玄丸の評価】
「目的のない配達、理由のない訪問——と切り捨てるのは簡単だ。だが今日の豆腐は確かに美味かった。それに、あの小僧が『来てもいいと言われた』と知った時の手の動きを、我は見ていた。理に適った行為だけが価値を持つとは、もはや言い切れん。何を届けたいのかを、自分でも言葉にできない者が、それでも歩き続けている。そういうものを、我はこの都で少しずつ覚えている」
【遭遇時の対処法】
驚いて追い払わないこと。豆腐小僧はもともと危険ではなく、むしろ縁起が良い存在とも言われる。差し出された豆腐は受け取って食べると良い。
「なぜ来たのか」と問い詰めると困らせてしまうため、「よく来てくれた」と一言添えるだけで十分。次からも顔を出してくれるようになる。
【豆知識】
豆腐小僧の初出は江戸時代の黄表紙や滑稽本とされ、他の妖怪と比べると成立が新しい。鳥山石燕の妖怪図には登場せず、民間伝承というよりは絵草子から生まれた妖怪と考えられている。
何百年も経った今日でも、夕暮れ時の路地を歩く大笠の小さな影が目撃されることがある。豆腐を持っているかどうかは、近づいてみないと分からない。




