第四十話「生前の記憶」
夜が明ける前に、真白の書きかけの歌のことを考えていた。
「声持たず 夜に揺れゐる 白き影——」
上の句だけが、墨の匂いとともに残っていた。下の句は、真白の中にまだない。あるいは、あっても書けないのか。
我にはどちらとも判断がつかなかった。
ただ、真白があの歌を詠んでいる、ということが、我にとっては問題だった。
「呼ばれているような気がする」と言っていた。口無し女のことを、すでに詩に詠んでいる。それは真白の中で、あの怨霊がすでに「知らない何か」ではなくなっている、ということだ。
放置できる段階ではない。
*
三日後の夜、我は再び東の市へ向かった。
月が丸くなっていた。満月まで、あと二日か三日というところだ。月光が都の屋根を白く染め、昨夜より視界が明るい。
口無し女の気配は、今夜も同じ場所にあった。
水路の向こう、細い道の入り口。白い影が立っている。
我は前の夜と同じく水路を渡り、十間ほどの距離まで近づいた。
白い影が、こちらに顔を向けた。
「にゃあ」
声をかけると、影の体が小さく揺れた。我の声を識別しているかどうかは分からない。だが、反応はある。
今夜の目的は、前回より深く踏み込むことだ。
「返して」——あの言葉の意味を、知る必要がある。
*
我は金の理を、前回よりも丁寧に広げた。
音と秩序と記憶の層に触れる理だ。猫の体ではまだ中級の手前にある。だが、今夜の月光が助けになる。猫の魔力は月に連動する。満月に近いほど、術の精度が上がる。
薄い膜を、空気の中に広げるように。
口無し女との間にある、十間の距離の空気を。
……震えが来た。
金の理が、何かに触れた。
人の言葉が持つ、固有の振動数——それが、この存在の周辺に残っている。言葉を奪う力を持つのならば、かつて持っていた言葉の痕跡も、あってしかるべきだ。理は消えない。形を変えるだけだ。
残響がある。
この存在が、かつて発した言葉の残響が。
我は耳を立て、金の理の膜を、その残響に合わせて微調整した。
*
最初に届いたのは、音ではなかった。
温度だ。
暖かい記憶——という言い方が正確かどうか分からないが、冷たくはなかった。春か初夏の、日の当たる場所の感覚。
次に、声が来た。
一つではない。複数の声が、重なって届いてくる。
女の声。若い、澄んだ声。それがいくつかの言葉を紡いでいる——しかし断片的で、順序がない。記憶の層というのは、時系列を持たない。感情の強度で引き寄せられ、浮かび上がる。
言葉の欠片が、我の金の理の膜に引っかかってくる。
「——菊を摘んで、持って帰ろうと……」
「——あなたの詠んだ歌、覚えているわ——」
「——上達部の方が来られると、誰も笑ってはいけないと——」
声が、途切れた。
*
次に来たのは、別の種類の声だった。
男の声。低い。命じる声だ。
「その歌を、二度と詠むな」
静けさ。
「聞こえぬか。黙れ、と言っている」
また、静けさ。
そして——女の声が、変わった。
さっきまで澄んでいた声が、震えている。言葉を形成しようとして、できない。喉の辺りで何かが詰まったような——
「——もう、声が——」
そこで、残響が途絶えた。
*
我は金の理を引き戻した。
少し、疲れた。記憶の層に触れるのは、相応の集中を要する。今の猫の体では、これが限界だ。
口無し女が、動いていた。
気がつくと、距離が縮まっていた。十間が、六間か七間になっている。近づいてきたのだろう。音はなかった。気配の変化だけが、微かにあった。
顔はまだ見えない。うつむいたままだ。
だが、今夜は口があるかないかよりも、別のことが気になった。
あの残響の中にあった「もう、声が——」という言葉。途中で途絶えた女の声。
声を失った、ということではない。
声を——奪われた。
*
記憶の残響から推測するに、この存在は生前、言葉を詠む女だった。
歌を詠んでいた。菊の花を摘んでいた。誰かの歌を覚えていた。言葉の温もりの中に生きていた。
そして、上達部——高位の貴族——によって、その言葉を奪われた。
「その歌を、二度と詠むな」
命令の理由は分からない。だが、あの声の質から推察できることがある。命じた男には、この女の言葉が、何か都合の悪いものだったのだろう。女の歌が何かを暴いていたのか。あるいは、誰かに届くことが、困る状況にあったのか。
どちらにせよ——言葉を奪われた女が、怨霊として留まっている。
「返して」と言っていた。
声を。言葉を。自分が持っていた、詠む力を。
単純な怨念ではない。だから熱がなかった。この存在は、誰かを傷つけたいわけではない。ただ、奪われたものを、取り戻したい。
では、近づいた人間から言葉を奪うのは——
「にゃあ」
我はもう一度、声を出した。
口無し女が、また止まった。
*
自分も声を持てない、から——と言ってしまえば、単純に過ぎる。だが、人の言葉を奪う行為が、怒りではなく悲しみから来ているとすれば、ひとつ解釈が立つ。
奪われる、ということが、どういうことか。
この存在は、それを伝えようとしている——可能性がある。誰かに分からせたくて、同じ状態にさせている。あるいは、声を奪うことで何かを集めようとしている。言葉の残響を。自分が失った声の、代わりになるものを。
どちらの解釈が正しいかは、まだ分からない。
分からないまま、今夜はここまでだ。
だが、方向は見えてきた。
この存在が求めているのは、声だ。言葉だ。自分が持っていたはずのものを、取り戻すか、あるいは——代わりに語ってくれる誰かを、求めている。
語ってくれる誰か。
そこで、我は少し立ち止まった。
*
真白の顔が、浮かんだ。
「呼ばれているような気がする」という言葉が。
言霊感応の素質を持つ真白が、声を持てない存在から「呼ばれている」と感じる理由が、今夜で少し分かった気がした。
この口無し女は、言葉を詠む者を探している。
自分の代わりに、言葉を返してくれる者を。
真白がその気配を受け取っているとすれば——この怨霊は、真白に接触を求めているということになる。
それは危険だ。
近づいた者の言葉を奪うという力が、意図的なものではないとしても、現象として起きている。真白が近づけば、真白の言葉が——
我は考えを、そこで止めた。
白い影が、また少し揺れた。
我と向き合ったまま、動かない。
「にゃあ」
三度目の声をかけた。
白い影は答えなかった。ただ、その体の揺れが、少し落ち着いた気がした。
*
帰り道、我は真澄に声をかけられる前に、自分から止まった。
路地の角の暗がりから、静かな気配がしていた。昨夜と同じ場所だ。
「にゃあ」
暗がりが少し動いた。
「三度目でございますな」
真澄の声は低く、責めていない。
「にゃあ」
「何か分かりましたか」
我は少し間を置いた。
「にゃあ」
真澄が黙った。我の「にゃあ」がどういう意味かを、解読しようとしているのだろう。この男は、我が思っている以上に、猫の応答を読んでいる。
「……声を奪われた者、でしたか」
「にゃあ」
真澄が息を吐いた。音にならないほど、静かな息だった。
「それは、易くはない」
「にゃあ」
「姫君を」
そこで真澄は言葉を切った。続きを言う前に、何かを考えているようだった。
「姫君を、近づけたいとお考えですか」
我はすぐに答えなかった。
「にゃあ」
小さく、ひとつだけ鳴いた。
真澄がまた黙った。今度は長かった。
「……承知しました」
それだけ言って、真澄は暗がりに溶けた。
承知、というのが何の承知なのか、我にも言葉にはできなかった。だが真澄は分かったようだった。
*
屋敷に戻ると、真白の部屋の行灯は消えていた。
今夜は眠っている。
我は縁側から廊下を歩き、真白の部屋の前で足を止めた。障子の向こうは静かだ。寝息が、かすかに聞こえる。
部屋の中には入らなかった。
文机の上に、あの書きかけの歌がある。「声持たず 夜に揺れゐる 白き影——」。真白はまだ、下の句を書いていないはずだ。
我は廊下に座ったまま、しばらく、真白の寝息を聞いた。
声を持てない存在が、「返して」と言っている。
真白の声は、どこへ向かおうとしているのか。
問いだけが残って、答えはなかった。
我は廊下で丸くなり、目を閉じた。
冬の夜が、静かに深くなっていく。




