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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第二章:口無し女の章

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第三十九話「声の在り処」

翌晩、我は少し早く出た。


雨は上がっていた。空が乾いている。月は三日後に満月になる計算だ。今夜はまだ丸くなりきれていない、惜しい形の月が、屋根の向こうに浮かんでいた。


真白は書き物をしていた。声をかけることもなく、我はそっと縁側から外へ出た。


真白が振り返らなかった、ということは、気づかなかった、ということではないかもしれない。


それは、今は考えない。


     *


東のひがしのいちまで、屋根伝いに走る。


冬の空気は乾いた後のほうが鋭い。一息ごとに肺が冷える。猫の肺は小さいから、冷えるのも早い。


昨夜より、静かだった。


昨夜は遠くで犬が鳴いていた。今夜はその犬もいない。市の広場に近づくにつれ、静けさの密度が変わる。音がないのではなく、音を吸われているような静けさだ。


気配はある。


昨夜と同じ場所——水路の向こう、細い道の入り口付近。


今夜は昨夜より濃い。


我は屋根の端で立ち止まり、魔力の糸を細く伸ばした。猫の体では大した出力にはならないが、気配の性質を読むぐらいはできる。


怨念おんねんの類ではない。


これは重要な判断だ。怨念であれば、怒りや憎しみの熱がある。だが、この気配には熱がない。冷たい。静かだ。


傘化けが「悲しみ」を持っていたように、これも何か別の感情に基づいているかもしれない。


我は屋根から地面に降りた。


     *


近づくほど、静けさが深くなった。


足元の土が、心なしか重い。猫の足には軽いはずの砂利が、踏みしめるたびに妙な抵抗を返してくる。


二十間けん


十間。


水路の端まで来て、我は立ち止まった。


向こう岸に、白いものが立っている。


白い着物。長い黒髪。うつむいた顔。


顔、と言ったが——正確には「顔があるはずの部分」だ。黒髪が前に垂れて、表情は見えない。立っているだけで、動かない。


口無しくちなしおんな


怪異の名としては知っている。近づいた者の言葉を奪う。声を失わせる。記憶を封じる。だが、なぜそうするのかは、まだ分からない。


怨念から来る攻撃なのか。それとも、何か別の理由があるのか。


「にゃあ」


声をかけた。


人間のような言葉ではない。ただの猫の鳴き声だ。だが、意識的に声を出した。こちらに存在があること、そして向こうを認識していることを、伝えるために。


白い影が、わずかに動いた。


顔がこちらを向いた——顔は見えないままで、しかし向いた。


     *


沈黙が続いた。


五十の呼吸ほど、我は水路の端で立ち続け、白い影は向こう岸で立ち続けた。


何も起こらなかった。


声を奪われもしなかった。記憶が封じられる感覚もない。ただ、静かに向かい合っていた。


これは何だ。


我は考えた。


「近づいた者の言葉を失わせる」という証言があった。実俊さねとし陰陽寮おんようりょうで集めた情報だ。複数の人間が声を失い、そのうち一人は翌日も回復せず、二人目は三日後にようやく声が戻った。


だが今、我はまだ「にゃあ」と言える。


猫の声だから影響が薄いのか。それとも、この距離では届かないのか。あるいは——この存在が、今は力を使っていないのか。


力を使っていない、とすれば、なぜか。


眠っているわけではなさそうだ。確かに我を認識している。では、使う必要がないと判断しているのか。あるいは、使いたくない何かがあるのか。


「にゃあ」


もう一度、声を出した。


白い影は動かない。


我は一歩、前に出た。


     *


水路を渡ることにした。


幅は四尺しゃくほど。猫の跳躍で十分届く。我は助走をつけ、一息で対岸へ渡った。


着地した瞬間、空気の質が変わった。


さっきと同じ「冷たさ」が、濃くなった。生気の薄い、静かな冷たさだ。肌ではなく、体の内側が冷える感覚。


白い影まで、十間を切った。


我は立ち止まり、もう一度気配を読んだ。


怨念ではない——という判断は変わらない。だが、この近さで感じると、もう少し細かいことが分かる。


悲しみ。


これも傘化けが持っていた類の感情だ。だが傘化けのものより、ずっと深い。傘化けは語ることができた。悲しみに輪郭があった。これは——輪郭がない。どこから始まってどこで終わるのか分からない、底のない冷たさだ。


語れなかった悲しみ、か。


我は思い出した。昨日の夕暮れ、傘化けを見送りながら考えたことを。


語れるうちは、まだ危険ではない。語れなくなった時が問題だ。


この存在は、語れなくなった側だ。


     *


「にゃあ」


今度は、少し違う鳴き方をした。


強くも弱くもなく、ただ——ここにいる、と告げるような声。我がかつてアルメラで「理の場を整える」前に行っていた、存在の宣言に近い響きで鳴いた。


白い影が、小さく震えた。


震え、というより——揺れた、と言った方が近い。水面に石を投げた時のように、中心から外へ向かって、ゆっくりと波が広がるような動きだった。


髪が、わずかに乱れた。


顔は、まだ見えない。


「……」


何かが、聞こえた気がした。


音ではない。声でもない。だが確かに、何かが届いた。


言葉にならない何かが、この静けさの中に漂っている。


我は耳を立てた。猫の聴覚は、人間より広い帯域を拾う。高音も低音も人間以上に捉えられる。だが、今感じているものは音の問題ではない。もっと別の層にある。


金のかなのことわり


音と秩序と、記憶の層に触れる理だ。


我は、ほんの僅かに金の理を展開した。猫の体ではこれが限界だ。だが、ほんの薄い膜を広げるだけで十分かもしれない。


空気が、かすかに震えた。


そして——


「……返し、て」


音になるかならないかの、声が聞こえた。


     *


我は動かなかった。


「返して」。


何を、かは分からない。だが確かに、そう聞こえた。怨言おんごんでも呪詛じゅそでもなく、ただの——懇願だった。


この存在は、何かを求めている。


そして、その何かを取り戻せないから、ここに留まっている。人の言葉を奪うのは、攻撃のためではないのかもしれない。


白い影が、また震えた。


今度は先ほどより強く。我の金の理に反応しているのか、それとも声を発したことで何かが動いたのか。


「にゃあ」


我は短く応えた。


聞こえた、という意味で。


白い影の震えが止まった。


そして、ゆっくりと——顔を上げ始めた。


髪がかき分けられるように、顔の輪郭が見え始めた。


我は目を細めた。


     *


顔はあった。


目も、鼻も、眉も。


だが、口がなかった。


口があるべき場所が——なめらかな肌で覆われていた。傷があるわけでも、塞がれているわけでもなく、最初からそこに口というものが存在しなかったかのように、ただ、ない。


口無し女、とはそういう意味だったか。


怪異の姿を事前知識として持っていたつもりだったが、実際に見ると、知識と実物の間には隔たりがある。


痛ましい、と思った。


これは感情の言葉だ。我がこういう言葉を使うのは珍しい。だが他に適切な語がなかった。


口がない。言葉が出ない。声が出ない。


それは、怨念から生まれた姿なのか。それとも、最初からこうだったのか。


「……」


また、あの音にならない声が届いた。


今度は「返して」ではない。もっと単純な何か。我の存在に向けた、問いのようなもの。


お前は何だ——と聞いているのかもしれない。


「にゃあ」


我は答えた。


猫だ。ただの猫だ。今のところは。


     *


その後、我と口無し女は、しばらく向かい合ったまま動かなかった。


何も起こらなかった。言葉は交わせない。我には声があるが、相手には口がない。相手の言葉は音にならず、我の言葉は猫の声にしかならない。


それでも、何かは通じていた。


少なくとも、口無し女はこちらを攻撃しなかった。近づく者の言葉を奪うという話だったが、我の声は今も出る。


猫だから影響が薄いのか、それとも、今夜の口無し女がそれを望まなかったのか。


後者だと思う。


根拠はない。ただ、この存在の悲しみの性質が、攻撃的なものとは違う気がした。言葉を奪うのは、意図的な攻撃ではなく——何かを求めて手を伸ばした結果なのかもしれない。


「返して」と言った。


何を。


声か。言葉か。記憶か。あるいは、もっと別の何か。


「にゃあ」


我はもう一度、ただそれだけ言った。


明日また来る、という意味で。今夜はここまでだという意味でもある。


口無し女の体が、かすかに揺れた。


返事なのかどうかは分からなかった。


     *


水路を渡り、市の広場を抜け、屋根の上に戻った頃、体が少し疲れていた。


金の理を使ったせいだ。微量でも、猫の体では負担になる。


帰り道は急がなかった。


考えながら歩いた。


口無し女は何者か。何を「返して」と言っているのか。なぜ人の言葉を奪うのか。口がない姿で、なぜここに留まっているのか。


怨霊としての力を持ちながら、怨念を持たない存在——というのは、珍しい。怨霊というものは、怒りか悲しみかのどちらかが動力になっている。この存在は悲しみで動いているようだが、その悲しみの源がまだ分からない。


源が分からなければ、対処できない。


我はまず、この存在の「来歴」を知る必要がある。何者だったのか。何を失ったのか。


その糸口は——おそらく、真白が持っている。


「呼ばれている」という感覚。言霊ことだまへの感応。声を持てない者への共感。


真白には、この存在に近づく何かがある。


だから危険でもある。


真澄ますみの忠告は正しかった。「近づかせるな」という判断は、合理的だ。


しかし、近づかせずに解決できるかどうか。


     *


屋敷に戻ると、真白の部屋の明かりはまだあった。


今夜も消えていない。


我は縁側から部屋の前まで歩き、障子の向こうの気配を確かめた。


書き物をしている。筆を動かす音がかすかにする。


我は障子をくぐった。


真白が顔を上げた。


「おかえり」


「にゃあ」


それだけだった。どこへ行ったかも、どのくらいかかったかも、聞かなかった。ただ「おかえり」と言った。


我は真白の傍まで歩いて、そこに座った。


真白が筆を持ち直して、また書き物を続ける。


机の上の紙には、歌が書かれていた。


まだ途中だった。


下の句が書かれていない。上の句だけが、墨の乾かないうちに置かれていた。


「声持たず 夜に揺れゐる 白き影——」


我は、その文字を読んだ。


真白は口無し女のことを、すでに歌に詠んでいる。


「にゃあ」


「うん」


真白が小さく答えた。


下の句はまだ出てこないのか、それとも、まだ書く気にならないのか。


筆が止まったまま、しばらくの間、真白は紙を見つめていた。

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