第三十九話「声の在り処」
翌晩、我は少し早く出た。
雨は上がっていた。空が乾いている。月は三日後に満月になる計算だ。今夜はまだ丸くなりきれていない、惜しい形の月が、屋根の向こうに浮かんでいた。
真白は書き物をしていた。声をかけることもなく、我はそっと縁側から外へ出た。
真白が振り返らなかった、ということは、気づかなかった、ということではないかもしれない。
それは、今は考えない。
*
東の市まで、屋根伝いに走る。
冬の空気は乾いた後のほうが鋭い。一息ごとに肺が冷える。猫の肺は小さいから、冷えるのも早い。
昨夜より、静かだった。
昨夜は遠くで犬が鳴いていた。今夜はその犬もいない。市の広場に近づくにつれ、静けさの密度が変わる。音がないのではなく、音を吸われているような静けさだ。
気配はある。
昨夜と同じ場所——水路の向こう、細い道の入り口付近。
今夜は昨夜より濃い。
我は屋根の端で立ち止まり、魔力の糸を細く伸ばした。猫の体では大した出力にはならないが、気配の性質を読むぐらいはできる。
怨念の類ではない。
これは重要な判断だ。怨念であれば、怒りや憎しみの熱がある。だが、この気配には熱がない。冷たい。静かだ。
傘化けが「悲しみ」を持っていたように、これも何か別の感情に基づいているかもしれない。
我は屋根から地面に降りた。
*
近づくほど、静けさが深くなった。
足元の土が、心なしか重い。猫の足には軽いはずの砂利が、踏みしめるたびに妙な抵抗を返してくる。
二十間。
十間。
水路の端まで来て、我は立ち止まった。
向こう岸に、白いものが立っている。
白い着物。長い黒髪。うつむいた顔。
顔、と言ったが——正確には「顔があるはずの部分」だ。黒髪が前に垂れて、表情は見えない。立っているだけで、動かない。
口無し女。
怪異の名としては知っている。近づいた者の言葉を奪う。声を失わせる。記憶を封じる。だが、なぜそうするのかは、まだ分からない。
怨念から来る攻撃なのか。それとも、何か別の理由があるのか。
「にゃあ」
声をかけた。
人間のような言葉ではない。ただの猫の鳴き声だ。だが、意識的に声を出した。こちらに存在があること、そして向こうを認識していることを、伝えるために。
白い影が、わずかに動いた。
顔がこちらを向いた——顔は見えないままで、しかし向いた。
*
沈黙が続いた。
五十の呼吸ほど、我は水路の端で立ち続け、白い影は向こう岸で立ち続けた。
何も起こらなかった。
声を奪われもしなかった。記憶が封じられる感覚もない。ただ、静かに向かい合っていた。
これは何だ。
我は考えた。
「近づいた者の言葉を失わせる」という証言があった。実俊が陰陽寮で集めた情報だ。複数の人間が声を失い、そのうち一人は翌日も回復せず、二人目は三日後にようやく声が戻った。
だが今、我はまだ「にゃあ」と言える。
猫の声だから影響が薄いのか。それとも、この距離では届かないのか。あるいは——この存在が、今は力を使っていないのか。
力を使っていない、とすれば、なぜか。
眠っているわけではなさそうだ。確かに我を認識している。では、使う必要がないと判断しているのか。あるいは、使いたくない何かがあるのか。
「にゃあ」
もう一度、声を出した。
白い影は動かない。
我は一歩、前に出た。
*
水路を渡ることにした。
幅は四尺ほど。猫の跳躍で十分届く。我は助走をつけ、一息で対岸へ渡った。
着地した瞬間、空気の質が変わった。
さっきと同じ「冷たさ」が、濃くなった。生気の薄い、静かな冷たさだ。肌ではなく、体の内側が冷える感覚。
白い影まで、十間を切った。
我は立ち止まり、もう一度気配を読んだ。
怨念ではない——という判断は変わらない。だが、この近さで感じると、もう少し細かいことが分かる。
悲しみ。
これも傘化けが持っていた類の感情だ。だが傘化けのものより、ずっと深い。傘化けは語ることができた。悲しみに輪郭があった。これは——輪郭がない。どこから始まってどこで終わるのか分からない、底のない冷たさだ。
語れなかった悲しみ、か。
我は思い出した。昨日の夕暮れ、傘化けを見送りながら考えたことを。
語れるうちは、まだ危険ではない。語れなくなった時が問題だ。
この存在は、語れなくなった側だ。
*
「にゃあ」
今度は、少し違う鳴き方をした。
強くも弱くもなく、ただ——ここにいる、と告げるような声。我がかつてアルメラで「理の場を整える」前に行っていた、存在の宣言に近い響きで鳴いた。
白い影が、小さく震えた。
震え、というより——揺れた、と言った方が近い。水面に石を投げた時のように、中心から外へ向かって、ゆっくりと波が広がるような動きだった。
髪が、わずかに乱れた。
顔は、まだ見えない。
「……」
何かが、聞こえた気がした。
音ではない。声でもない。だが確かに、何かが届いた。
言葉にならない何かが、この静けさの中に漂っている。
我は耳を立てた。猫の聴覚は、人間より広い帯域を拾う。高音も低音も人間以上に捉えられる。だが、今感じているものは音の問題ではない。もっと別の層にある。
金の理。
音と秩序と、記憶の層に触れる理だ。
我は、ほんの僅かに金の理を展開した。猫の体ではこれが限界だ。だが、ほんの薄い膜を広げるだけで十分かもしれない。
空気が、かすかに震えた。
そして——
「……返し、て」
音になるかならないかの、声が聞こえた。
*
我は動かなかった。
「返して」。
何を、かは分からない。だが確かに、そう聞こえた。怨言でも呪詛でもなく、ただの——懇願だった。
この存在は、何かを求めている。
そして、その何かを取り戻せないから、ここに留まっている。人の言葉を奪うのは、攻撃のためではないのかもしれない。
白い影が、また震えた。
今度は先ほどより強く。我の金の理に反応しているのか、それとも声を発したことで何かが動いたのか。
「にゃあ」
我は短く応えた。
聞こえた、という意味で。
白い影の震えが止まった。
そして、ゆっくりと——顔を上げ始めた。
髪がかき分けられるように、顔の輪郭が見え始めた。
我は目を細めた。
*
顔はあった。
目も、鼻も、眉も。
だが、口がなかった。
口があるべき場所が——なめらかな肌で覆われていた。傷があるわけでも、塞がれているわけでもなく、最初からそこに口というものが存在しなかったかのように、ただ、ない。
口無し女、とはそういう意味だったか。
怪異の姿を事前知識として持っていたつもりだったが、実際に見ると、知識と実物の間には隔たりがある。
痛ましい、と思った。
これは感情の言葉だ。我がこういう言葉を使うのは珍しい。だが他に適切な語がなかった。
口がない。言葉が出ない。声が出ない。
それは、怨念から生まれた姿なのか。それとも、最初からこうだったのか。
「……」
また、あの音にならない声が届いた。
今度は「返して」ではない。もっと単純な何か。我の存在に向けた、問いのようなもの。
お前は何だ——と聞いているのかもしれない。
「にゃあ」
我は答えた。
猫だ。ただの猫だ。今のところは。
*
その後、我と口無し女は、しばらく向かい合ったまま動かなかった。
何も起こらなかった。言葉は交わせない。我には声があるが、相手には口がない。相手の言葉は音にならず、我の言葉は猫の声にしかならない。
それでも、何かは通じていた。
少なくとも、口無し女はこちらを攻撃しなかった。近づく者の言葉を奪うという話だったが、我の声は今も出る。
猫だから影響が薄いのか、それとも、今夜の口無し女がそれを望まなかったのか。
後者だと思う。
根拠はない。ただ、この存在の悲しみの性質が、攻撃的なものとは違う気がした。言葉を奪うのは、意図的な攻撃ではなく——何かを求めて手を伸ばした結果なのかもしれない。
「返して」と言った。
何を。
声か。言葉か。記憶か。あるいは、もっと別の何か。
「にゃあ」
我はもう一度、ただそれだけ言った。
明日また来る、という意味で。今夜はここまでだという意味でもある。
口無し女の体が、かすかに揺れた。
返事なのかどうかは分からなかった。
*
水路を渡り、市の広場を抜け、屋根の上に戻った頃、体が少し疲れていた。
金の理を使ったせいだ。微量でも、猫の体では負担になる。
帰り道は急がなかった。
考えながら歩いた。
口無し女は何者か。何を「返して」と言っているのか。なぜ人の言葉を奪うのか。口がない姿で、なぜここに留まっているのか。
怨霊としての力を持ちながら、怨念を持たない存在——というのは、珍しい。怨霊というものは、怒りか悲しみかのどちらかが動力になっている。この存在は悲しみで動いているようだが、その悲しみの源がまだ分からない。
源が分からなければ、対処できない。
我はまず、この存在の「来歴」を知る必要がある。何者だったのか。何を失ったのか。
その糸口は——おそらく、真白が持っている。
「呼ばれている」という感覚。言霊への感応。声を持てない者への共感。
真白には、この存在に近づく何かがある。
だから危険でもある。
真澄の忠告は正しかった。「近づかせるな」という判断は、合理的だ。
しかし、近づかせずに解決できるかどうか。
*
屋敷に戻ると、真白の部屋の明かりはまだあった。
今夜も消えていない。
我は縁側から部屋の前まで歩き、障子の向こうの気配を確かめた。
書き物をしている。筆を動かす音がかすかにする。
我は障子をくぐった。
真白が顔を上げた。
「おかえり」
「にゃあ」
それだけだった。どこへ行ったかも、どのくらいかかったかも、聞かなかった。ただ「おかえり」と言った。
我は真白の傍まで歩いて、そこに座った。
真白が筆を持ち直して、また書き物を続ける。
机の上の紙には、歌が書かれていた。
まだ途中だった。
下の句が書かれていない。上の句だけが、墨の乾かないうちに置かれていた。
「声持たず 夜に揺れゐる 白き影——」
我は、その文字を読んだ。
真白は口無し女のことを、すでに歌に詠んでいる。
「にゃあ」
「うん」
真白が小さく答えた。
下の句はまだ出てこないのか、それとも、まだ書く気にならないのか。
筆が止まったまま、しばらくの間、真白は紙を見つめていた。




