第三十八話「傘化けの雨宿り」
雨というものは、猫にとって最も不当な天候だ。
濡れるのは嫌いだ。冷たいし、毛が重くなるし、乾くのに時間がかかる。かといって屋内に閉じ込められたままでは、どこか落ち着かない。縁側に出ると雨粒が跳ねてくる。引っ込むと今度は雨の匂いだけが漂ってきて、外が気になる。
どちらに転んでも不満が生じる。これを不当と呼ばずして何と呼ぶか。
我は縁側の端に座り、軒から落ちる雨粒を眺めた。
冬の雨だ。冷たく、細く、執念深く降り続けている。庭の松飾りがすっかり濡れて、切り口の白さだけが雨の中で光っている。
そういえば、庭の隅に何かいる。
*
改めて見ると、それは傘だった。
古い傘が、庭の隅の軒下に立てかけてあった。いや、立てかけてあるというより、立っている。傘の柄の下から、細い一本足が覗いている。傘の上部に、大きな一つ目が開いている。
傘化け(からかさおばけ)だ。
妖怪の中でも馴染み深い種類で、長年使われた傘が付喪神として目覚めた存在だ。付喪神としての性質からすれば、基本的に人間に害はない。ただ、驚かすことはある。
今のところ、ただ立っている。
雨に打たれながら、一つ目を半分閉じて、ぼんやりとしている。
我は縁側から庭を観察した。傘化けの様子は、脅威というより——どこか疲れているように見える。
「にゃあ」
小さく声をかけた。
傘化けの一つ目が、こちらを向いた。
*
近くで見ると、傘はかなり古かった。
油紙は所々破れ、骨の一本が折れて曲がっている。柄も古びていて、かつては朱色だったものが、今は褪せて薄桃色になっている。長い年月を経た傘だ。
「猫か」
傘化けが言った。
声は思ったより普通だった。しわがれてもなく、不気味でもなく、ただ少し疲れた声だった。
「雨宿りをさせてもらっている。邪魔であれば、出て行くが」
「にゃあ」
「出て行かなくていい、か」
「にゃあ」
傘化けが一つ目を細めた。それが安堵の表情なのかどうか、一つ目の傘に表情を読もうとするのは無理があるかもしれないが、少なくとも体の力が抜けた気がした。
「助かる。もう少し休みたかった」
*
話を聞くと、こういうことだった。
この傘化けは、元々は都の商家の主人が愛用していた傘だった。三十年以上使われた。雨の日には必ず持ち出され、よく手入れをされた。長年の使用で付喪神として目覚めた時、傘化けは自分がその商家に属するものだと思っていた。
ところが、主人が亡くなった。
息子の代になり、古い傘は捨てられた。
「捨てられた日のことは、よく覚えている」
傘化けが言った。声に特別な感情はなかった。ただ、覚えている、と言った。
「雨の日だった。息子が庭に放り出して、そのまま置いていった。拾われることもなく、ある日気づいたら、こうなっていた」
一本足で地面を、とんとんと叩いた。
「怒っているのか」と聞くつもりだったが、我には声がない。「にゃあ」と鳴いた。
「怒ってはいない。ただ、悲しかった」
傘化けがまた一つ目を細めた。
「長い間、一緒にいたと思っていたから。そういうものだと、思っていたから」
*
我は少し考えた。
付喪神が生まれるためには、物が長年にわたって使われ、大切にされる必要がある。使われなければ魂は宿らない。粗末に扱われ続けたものにも宿らない。愛着と使用の積み重ねの中で、物に意識が宿る。
ならば、捨てられることは、その積み重ねを否定することになる。
物を捨てる人間は、おそらくそこまで考えていない。古くなった、壊れた、新しいものを手に入れた。それだけのことだ。そこに悪意はない。しかし物の側からすれば、長年かけて積み上げてきたものが、ある日突然終わる。
理の観点から言えば、積み重ねには重さがある。その重さを無視することは、小さな乱れを生む。
アルメラ(異世界)でも同じことがあった。帝国では多くの魔具が作られ、使われ、捨てられた。我はかつて、そういった物たちの怨念が積み重なって異変を起こした場所を知っている。物の声は、人間には聞こえない。聞こえないから、軽く扱う。
「にゃあ」
我は傘化けに向かって、もう一度鳴いた。
何を伝えようとしたのか、正確には言えない。ただ、聞こえている、ということだけは伝えたかった。
傘化けが一つ目を大きく開けた。
「猫は、なかなか話がわかる」
*
真白が気づいたのは、しばらくしてからだった。
縁側に猫がいる、と思ったら庭の隅に傘が立っている、と思ったら傘に目がある——という順番で認識したらしく、部屋の中で少し声を上げた。それから落ち着いて、縁側に出てきた。
「傘化けさんですか」
真白が聞いた。
「左様。驚かせて申し訳ない」
傘化けが答えた。
真白は少しの間、傘化けを見ていた。古くて、骨が折れていて、一つ目の傘が雨の中に立っている。その様子を、怖そうには見ていなかった。
「雨宿りをされているの?」
「ええ。少し疲れてしまって」
「それはゆっくりしていらっしゃい」
真白が言った。
それだけだった。理由を聞かなかった。どこから来たかも聞かなかった。疲れているなら休めばいい、という、それだけのことを言った。
傘化けが一つ目を細めた。今度はそれが何を意味するか、我にも少し分かった気がした。
しばらくして、真白が温かい汁物を持ってきた。
「飲めるかどうか分からないけれど、よかったら」
傘化けが一本足で少し揺れた。
「……飲める。ありがとう」
真白が椀を軒下に置いた。傘化けがゆっくりと汁物を飲んだ。我は縁側でその様子を眺めた。
雨が続いている。細く、冷たく、庭を濡らしている。
*
雨が上がったのは夕刻近くだった。
傘化けは立ち上がり、一つ目で真白と我を順番に見た。
「世話になった」
「またいつでも来てください」
真白が言った。
傘化けは一本足でひょこひょこと歩き、庭の門を抜けて、路地の向こうに消えた。一本足の音が遠ざかり、聞こえなくなった。
「捨てられたのかしら」
真白が静かに言った。
「あの傘、かなり古かったから」
「にゃあ」
「人間って、そういうことをするのよね。ずっと一緒にいたものを、ある日捨てる。もちろん仕方のない事情もあるけれど……」
真白が少し黙った。
「物も、悲しむかもしれない、と思う」
「にゃあ」
我は縁側で毛づくろいを始めた。
捨てられた物には、声がある。傘化けはそれを聞かせてくれた。
では、声を持てない者には、何が残るか。
怨霊というのは、往々にして声を奪われた存在だ。いや——正確には、声を持てなくなった存在だ。傘化けは悲しみを語ることができた。語れるから、まだ留まっていられる。
語れなくなった時、何が残るか。
夕暮れの空が、雨上がりの光で橙に染まっていた。
我はその色を見ながら、明日の夜のことを考えた。
【妖怪図鑑】
■傘化け(からかさおばけ)
【分類】付喪神・器物妖怪
【危険度】★☆☆☆☆(ほぼ無害)
【レア度】★★☆☆☆(都市部の古い家屋周辺でまれに目撃)
【出現場所】雨の日の軒下、古道具屋の近く、打ち捨てられた物置
【特徴】
長年使い込まれた傘が付喪神として目覚めた妖怪。外見は一本の柄から伸びた一本足と、傘の上部に開いた大きな一つ目が特徴的で、その姿が人々に強い印象を与える。
付喪神の性質上、生まれるためには「長年使われ、大切にされ続けた」という条件が必要だ。粗末に扱われたものには宿らない。使い捨ての傘から傘化けは生まれない。逆に言えば、傘化けが存在するということは、その傘がかつて誰かに大切にされていた証拠でもある。
今回の個体は商家の主人に三十年以上愛用されていた。主人の死後、息子の代に捨てられて付喪神として目覚めた。怨念ではなく「悲しみ」として感情を昇華させており、人を傷つける意志はない。
【得意技】
・驚愕:一本足でひょこひょこと歩く姿、突然開く一つ目が人を驚かせる(意図的ではないことも多い)
・雨中行動:傘という構造上、雨の中でも快適に動ける。雨粒を自在に弾く
・長期記憶:付喪神は使用者との記憶を鮮明に保持する。何十年前のことでも詳しく語れる
【弱点】
・強風:傘という構造上、強い風に弱い。骨が折れやすい
・火:紙と骨でできているため、火に極端に弱い
・孤独:捨てられた記憶が刺激されると精神的に不安定になる
【生態】
基本的には放浪している。かつての使用者を探すものもいれば、ただ雨の日を好んで各地を巡るものもいる。雨の日に軒下で雨宿りをする姿が目撃されることが多く、それが傘化けの「雨宿り伝説」の元になっているとも言われる。
人間が傘化けと友好的に接した場合、その家に守護をもたらすことがある。ただし積極的に助けに来るほどの力はなく、「何となく雨の日が良い方向に転ぶ」程度の加護だ。
食事については、温かい汁物や湯を喜ぶ。長年雨にさらされ続けてきたため、温かいものに特別な反応を示す。
【玄丸の評価】
「傘化けは、物に魂が宿るという理の好例だ。アルメラにも似た現象があった。長年使われた魔具が意志を持つことがある。物への敬意は、ただの感情論ではなく、理的な問題だ。捨てられた物の怨念が積み重なれば、都市規模の異変にもなりうる。今回の個体は悲しみを語れる段階にある。語れるうちは、まだ危険ではない。語れなくなった時が問題だ——そこで我は、ある怨霊のことを考えた」
【遭遇時の対処法】
見かけても驚かない、逃げない。驚いて逃げると追いかけてくることがある(悪意はないが、構ってほしいだけのこともある)。
静かに「雨宿りですか」と声をかけると、たいていは普通に返事をする。温かいものを差し出すと喜ばれる。捨てられた経緯を聞くと悲しそうにするので、無理に聞かないほうがよい。
古い傘を粗末にしないこと。長年使った傘を捨てる際は、感謝の言葉を一言かけるだけで、傘化けとしての目覚め方が変わるとも言われる。
【豆知識】
傘化けは妖怪絵画の中でも特に人気が高く、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にも描かれている。一本足・一つ目・赤い長い舌を出した姿が定番だが、地域によって描かれ方は異なる。
江戸時代には「百器徒然袋」など複数の書物に登場し、付喪神の代表格として親しまれた。もっとも平安時代の記録では傘化けの姿はあまり見られず、傘が普及した時代とともに目撃例が増えた妖怪でもある。
使い捨て文化が広まった現代においては、傘化けの目撃例は減っているという。長年使い続けた傘にしか宿らないのだから、これは当然かもしれない。




