第三十七話「夜の徘徊」
また夜に出ている。
屋根の上を走りながら、我はそのことを一度だけ考えた。昨夜も出た。今夜も出た。「確かめに行くだけだ」と言い訳をしながら、二夜続けて同じ方角へ向かっている。
これを徘徊と呼ばずに何と呼ぶか。
ただし徘徊には目的がない。我には目的がある。口無し女の気配の正体を掴む。それだけだ。目的がある以上、徘徊ではない。偵察だ。
などと考えながら走るのは、多少みっともない。
*
東の市の近くまで来ると、昨夜と同じく空気が変わった。
冬の冷たさとは別の、静かな冷たさ。生気の薄い空気。妖気は昨夜より少しだけ濃い。我は屋根の端で立ち止まり、ゆっくりと辺りを見回した。
月が出ていた。昨夜より丸い。
市の広場は昼間の賑わいが嘘のように静まり返り、露台の骨組みだけが月明かりに浮かんでいる。水路の水が、冷たく光っている。
人の姿はない。
だが。
水路の向こう、細い道の入り口あたりに、白いものがあった。
立っている。動いていない。ただ立っている。
距離にして三十間ほどか。遠い。顔は見えない。というより、顔があるのかどうかが、この距離では分からない。白い着物を着た人の形をしたものが、そこにある。
妖気の中心は、あそこだ。
我は屋根の上で、身を低くした。
*
近づくべきか。
我は考えた。
昨夜は「場所を確かめるだけ」と言い、今夜は「気配の性質を掴む」と言った。では次に何を言うか。「もう少し近くから観察する」か。「顔を確認する」か。
一つずつ理由をつけて近づいていけば、いつかは対峙することになる。
対峙することが目的ではない。情報収集が目的だ。
だが情報というものは、距離を縮めるほど精度が上がる。ならば近づく理由は常にある。その論理は正しい。しかし正しい論理が、今この場で正しい選択かどうかは別の話だ。
我は今、準備ができていない。
口無し女の力の性質が分からない。「近づくと言葉を失う」という証言は知っている。だが我は人間ではない。猫の体に宿る魔導王の魂だ。人間と同じ干渉を受けるかどうかは不明だ。
分からないまま接触するのは、合理的ではない。
今夜は、ここまでだ。
*
そう決めて、それでも我はしばらく動かなかった。
三十間の先の白いものが、微かに揺れた。風のせいかもしれない。あるいは我の気配を察したのかもしれない。
揺れた、というより、こちらを向いた気がした。
顔が見えない。目が見えない。それでも、何かが向いた。意識が、こちらに向いた。
その感覚は、我がかつてアルメラ(異世界)で戦場を読んでいた時の感覚に似ていた。強大な敵が、まだ距離を置いたまま、こちらの存在を認識する瞬間の気配。
怨霊は我を認識している。
そしておそらく——我が何者かを、まだ知らない。
それはひとつの優位だ。こちらは相手の存在を知っている。相手はこちらが何かを知らない。この差は、今後の接触に使える。
我は静かに身を翻し、来た方角へ走り始めた。
*
帰り道、真澄と行き合った。
路地の曲がり角を曲がったところで、壁の影から音もなく現れた。驚かなかったと言えば嘘になる。だが我も相応の修練を積んだ者だ。驚きを外に出すことはしない。
「夜歩きでございますか」
真澄が言った。
声は低く、静かだ。責めてもいない、咎めてもいない。ただ、確認している。
「にゃあ」
「東の方角から来られましたな」
「にゃあ」
真澄がわずかに視線を落とした。我と目が合う。
「姫君は、今夜も灯りを消さずにいましたぞ」
それだけ言って、真澄は再び影の中に溶けた。
影走り(かげばしり)の術だ。音もなく、気配も消える。半妖の血がなせる業で、夜の闇に馴染む速さは我でも追えない。
我は真澄が消えた壁の前で、一瞬だけ立ち止まった。
灯りを消さずにいた。
*
屋敷に戻ると、真白の部屋に確かに明かりがあった。
行灯の淡い光が、障子の向こうに滲んでいる。我は縁側から部屋の前まで歩き、立ち止まった。
中から音はしない。眠っているのかもしれない。眠れずにいるのかもしれない。
障子をくぐる前に、少し考えた。
真白は何も言っていない。「どこへ行くの」とも「いつ戻るの」とも聞かなかった。我が夜に出ていくことに、何も言わなかった。
だから我は、真白が待っているとは思っていなかった。
思っていなかった、というのは、正確には「思わないようにしていた」のかもしれない。
障子を音もなくくぐった。
真白は文机に寄りかかり、目を閉じていた。眠っている。手の中に、開いたままの書物がある。読みながら眠ってしまったのだろう。
我はそっと近づき、真白の傍に座った。
書物が床に滑り落ちないよう、前足で軽く押さえた。
真白の寝息は規則正しい。眠りは深くなっている。心配で眠れなかったのか、心配しながら眠ってしまったのかは、分からない。
分からなくていい。
我は真白の足元に丸くなり、目を細めた。
なぜ言わなかった、と問いたい相手がいる。真白に向けてではなく、我自身に向けて。「出かける」と言えば、真白は止めなかっただろう。心配しながらも、止めなかっただろう。
それを知っていたから、言わなかった。
心配をかけたくなかった——と言えば聞こえがいい。だが実際のところは、心配している顔を見たくなかった、のかもしれない。
その違いを考え始めると、少し面倒なことになる。
我は考えるのをやめた。
行灯の灯りが、ゆっくりと揺れている。真白の寝息が、静かに続いている。
今夜も、怨霊の正体は掴めなかった。
だが、怨霊は我の存在を認識した。次は、こちらから仕掛ける番だ。
そう決めて、我は目を閉じた。




