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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第二章:口無し女の章

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第三十六話「都の噂」

縁側で丸くなっていると、使用人たちの話し声が聞こえてきた。


「また出たそうですよ」


「どこで」


「東の市の近く。夜更けに、顔のない女が立っていたと」


「顔のない、とはまた……」


「声もないんだそうです。ただ立っている。近づいた男が、気づいたら言葉が出なくなっていたとか」


「まあ恐ろしい」


声が遠ざかっていく。


我は耳だけ動かして、目は閉じたままにしていた。


顔のない女。声のない女。近づくと言葉を失う。


噂というものは尾鰭おひれがつくものだ。実際に何があったかは、噂だけからは判断できない。だが、妖気の存在だけは事実として残る可能性がある。


耳の角度を元に戻した。


気にしておくべき情報だ。


     *


その日の夕刻、真白ましろ実俊さねとしから文を受け取った。


我は真白の文机ふみづくえの傍らで毛づくろいをしながら、横目でその様子を見ていた。


真白は文を読み、少し考えてから、もう一度読んだ。


「実俊さまが調べていらっしゃるのね」


独り言のように言った。我に向かって言っているのかどうか、分からない調子だった。


「都の東の辺りで、奇妙な怨霊おんりょうの目撃が相次いでいるって。陰陽寮でも把握しているけれど、詳細が分からなくて困っているって書いてある」


「にゃあ」


「玄丸も聞いた? 顔のない女の話」


「にゃあ」


真白が文をそっと折り畳んだ。


「気になるわ」


我は毛づくろいの手を止めた。


「ただ怖いというのとは違う。なんというか……呼ばれているような気がするの」


そう言ってから、真白は自分でも少し驚いた顔をした。


「変なことを言ったかしら」


「にゃあ」


変ではない。むしろ、それが問題だ。


     *


呼ばれている、という感覚。


真白が言霊感応ことだましんのうの素質を持つことは、今や我にとって疑いのない事実だ。詩を詠めば気が動き、言葉を発すれば場の空気が変わる。本人は気づいていないが、我にはそれが見える。


ならば、怨霊の側からも、真白の素質が見えるかもしれない。


怨霊というのは一般に、特定の感情——怒り、悲しみ、執念——が凝り固まったものだ。それが人の形をとり、浮遊する。多くは目的もなく漂うだけだが、中には明確な意志を持つものもいる。


声のない女。言葉を奪う存在。


奪う、という行為に意志を感じる。


意志を持つ怨霊は、それだけ力が強い。力が強ければ、感応する者の気配を読み取る可能性もある。


真白が「呼ばれているような」と感じたとすれば、それは真白の勘ではなく、怨霊からの干渉かもしれない。


我は前足の爪を、ゆっくりと縁側の板に立てた。


     *


翌朝、実俊が屋敷を訪ねてきた。


陰陽寮おんみょうりょうの白い狩衣かりぎぬを着て、いつもより表情が硬い。玄関先で真白と話す声が、廊下まで聞こえてきた。


「怨霊の目撃が、この一月で七件になりました」


実俊の声は、普段の理詰めの調子に、珍しく緊張の色が混じっていた。


「いずれも東の市の近く、夜更けから夜明けの間。いずれも声を失った、あるいは言葉が出なくなったという証言です。外傷はない。翌日には回復する。しかし……」


「しかし?」


「回復した後も、その夜のことを誰も詳しく話せないんです。見たものは覚えている。だが、言葉にしようとすると、言葉が出なくなる。記憶を封じているのかもしれません」


記憶の封印。


我は廊下の角から、二人のやり取りを観察していた。


これは単純な怨霊ではない。記憶に干渉できるとすれば、水のみずのことわりに近い力を持つか、あるいは言葉そのものを操る別種の力か。後者なら、我の知る妖怪体系にはない能力だ。


「真白殿は、近づかないでください」


実俊が言った。


その声に、いつもの理詰めとは別の何かがあった。


「危険です。陰陽寮で対処を検討していますが、まだ方法が定まっていない。正体も分からない。近づくだけで言葉を失うとすれば、一般の人間には手が出せない」


「分かりました」


真白が答えた。


頷き方が、少し早かった。


     *


実俊が帰った後、真白は自分の部屋に戻り、しばらく黙って窓の外を見ていた。


我は部屋の入り口で、真白の横顔を見ていた。


さっきの「分かりました」は、分かった、という意味ではない。我にはそれが分かる。真白が本当に納得した時の「分かりました」は、もう少し柔らかい。さっきのは、実俊に心配をかけたくないという気遣いと、しかし自分の中にある何かを抑えられないでいる、その二つが同時に出た声だった。


「玄丸」


真白が振り返らずに呼んだ。


「にゃあ」


「あの方は、言葉を失っているのでしょうね」


「にゃあ」


「言葉を失った人の、気持ちが……なんとなく、想像できる気がするの」


我は少し考えた。


真白にとって言葉は、何より大切なものだ。詩を詠み、言霊を感じ、言葉の響きに意味を見出す。そういう人間が、声を持てない存在の苦しさを想像する時、ただの同情とは違う何かが生まれる。


それが、「呼ばれている」という感覚の正体かもしれない。


「にゃあ」


真白がようやく振り返った。


「怒ってる?」


「にゃあ」


「でも心配してる」


「にゃあ」


真白がかすかに笑った。


「玄丸は分かりやすいわね、時々」


分かりやすいとは何事か、と思ったが、今はそれより先に考えることがある。


     *


その夜、我は真白が眠ってから、一人で考えた。


声のない怨霊。言葉を奪う存在。記憶を封じる力。


そして、真白が「呼ばれている」と感じていること。


これは放置できない。実俊が陰陽寮で対処を検討しているのは知っている。だが陰陽寮の動きは遅い。彼らが方法を定めるより先に、真白が動くかもしれない。


真白のことは分かっている。言葉で「分かりました」と言っても、心が動けば体が先に動く。それがこの数ヶ月で学んだことだ。


ならば、我が先に動く必要がある。


方法は一つだ。先に怨霊の正体を掴む。相手が何者で、何を求めているのかが分かれば、対処の糸口が見つかる。情報なき戦いに臨むのは、理に反する。


我は静かに部屋の戸をくぐり、夜の廊下に出た。


真白の寝息が、遠ざかっていく。


東の市の近く。夜更けから夜明けの間。


確かめに行くだけだ。今夜は。


     *


外に出ると、冬の空気が鋭く肌を刺した。


都の夜は、年が変わっても静かだ。遠くで犬が一声鳴き、また静かになる。


我は塀の上を走り、屋根を渡り、東の方角へ向かった。


月は半月で、地を薄く照らしている。


行くだけだ、と思いながら走る。確かめるだけだ。危険を冒すつもりはない。ただ、何もせずに真白の傍にいて、真白が動こうとするのを止めるだけ、というのは我の性に合わない。


状況を知ること。理を把握すること。それが先だ。


東の市の方角に近づくにつれ、空気の質が変わった。


冷たさの種類が違う。冬の冷たさではなく、もっと静かな、生気の薄い冷たさだ。


妖気がある。


薄い。しかし確かにある。


我は屋根の上で立ち止まり、耳を立てた。


今夜は、ここまでだ。


場所は分かった。気配の性質も、おおよそ掴んだ。


引き返す。今夜は。


だが次は、もう少し近づく。

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