第四話「庭に潜む影」
屋敷での生活にも、だいぶ慣れてきた。
猫としての本能と、魔導王としての理性。その二つの間で揺れ動く日々だが、少しずつバランスが取れるようになってきた。
我が名は玄丸。真白の猫として、平安の都で暮らす元魔導王だ。
今日も、いつものように庭で日向ぼっこをしていた、はずだった。
*
正午過ぎ。
陽光が白い砂利を照らし、松の木が優雅な影を落としている。
我は縁側で、丸くなっていた。猫にとって、日向ぼっこは至福の時間だ。温かい日差しが毛皮を包み、心地よい眠気が襲ってくる。
だが、ふと、気配を感じた。
妙な、気配だ。
我は目を開けた。
庭の向こう、松の木の陰に、何かがいる。
それは、人ではない。だが、ただの動物でもない。
妖気、だ。
微かだが、確かに妖の気配がする。
我は体を起こした。
猫の視力は、人間よりも優れている。特に動くものを捉える能力は高い。
そして、見えた。
松の木の根元に、小さな影がある。
茶色い毛皮。ずんぐりとした体。そして、妙に人間じみた、狡猾そうな目。
狸、か。
いや、ただの狸ではない。あれは、化け狸だ。
我がいた世界にも、獣が魔力を帯びて妖怪化する現象はあった。この世界でも、同じことが起こるらしい。
狸は、我を見ていた。
その目には、明らかな敵意がある。
縄張り争い、か。
恐らく、この庭は元々あの狸のテリトリーだったのだろう。そこに我という新参者が現れたことで、狸は警戒しているのだ。
「にゃあ」
我は、軽く威嚇の声を出した。
去れ。ここは今、我のテリトリーだ。
だが、狸は動かない。
それどころか、近づいてきた。
のそのそと、四つ足で砂利を踏みしめながら。
その目が、我を値踏みするように見つめる。
舐められているな。
猫の体は、狸よりも小さい。戦えば、分が悪いと思われているのだろう。
だが、我は、ただの猫ではない。
元魔導王だ。封印されているとはいえ、魔力は残っている。
そして、真白を守るためなら。
我は、この屋敷を守る。
狸が、また一歩近づいてきた。
その瞬間、我は動いた。
四本の足で地面を蹴り、狸に向かって跳ぶ。猫の跳躍力は、思いのほか高い。狸の頭上を飛び越え、その背後に着地する。
狸が驚いて振り返る。
その隙に、我は意識を集中させた。
体内の魔力を探る。微かに、ほんの僅かに残っている力。
五行の理、そのうちの一つ、木の理。
風を操る術だ。
我は魔力を込めた。前足の肉球から、微かな緑色の光が漏れる。人間には見えないほどの、僅かな光。
そして、解放した。
「ふっ」
小さく息を吐くと同時に、風が起こった。
微弱な風。だが、狸の体を押すには十分だった。
狸がよろめく。バランスを崩して、砂利の上に転がる。
「にゃあああっ!」
我は、追い打ちをかけるように、威嚇の声を上げた。猫が怒った時の、鋭い声。
狸の目に、恐怖の色が浮かんだ。
この猫、ただの猫ではない。そう理解したのだろう。
狸は、慌てて逃げ出した。のそのそとした動きが、今度は慌ただしい。塀を越えて、庭の外へ消えていく。
我は、じっとその背中を見送った。
もう、来るな。ここは、我のテリトリーだ。そして、真白の、家だ。
息が、少し荒い。
魔法を使ったせいだ。微弱とはいえ、この小さな体には負担が大きい。
だが、成功した。
真白を、守れた。
*
「玄丸!」
真白の声がした。
振り返ると、彼女が縁側から駆け寄ってくる。
「大丈夫? 今、狸がいたでしょう?」
真白が心配そうに我を抱き上げる。
「怪我はない?」
我は「にゃあ」と鳴いた。大丈夫だ。心配するな。
真白は、我を抱きしめた。
「怖かったでしょう。でも、あなたは勇敢だったわ」
真白の声が、優しく響く。
「狸を追い払ってくれたのね。ありがとう」
真白の腕の中で、我は、ほっとした。
守れた。真白を、守れた。
それだけで、十分だ。
「玄丸」
真白が我を見つめる。
「あなた、本当に特別な猫ね」
その言葉に、我は、少し照れた。照れる、という感情を持つとは、思わなかった。
だが、真白に褒められると、嬉しい。
それは、認める。
「これからも、一緒にいてね」
真白が微笑む。
「あなたがいてくれれば、怖いものなんてないわ」
その言葉を聞いて、我は、思った。
真白を守る。それが、今の我の役目だ。
魔導王として世界を統べていた頃よりも、ずっと、小さな役目。
だが、ずっと、大切な役目。
我は、この役目を、全うしよう。
*
夕方。
我は、縁側で休んでいた。
魔法を使った疲労が、じわじわと体に染み込んでくる。
猫の体は、魔法を使うには脆弱すぎる。少しの術でも、こんなに疲れるのか。
だが、仕方ない。この体で生きる以上、この制約も受け入れなければならない。
「玄丸、お疲れ様」
真白が、小さな皿を持ってきた。
その上には、焼いた魚の切り身がある。
「今日は特別に、たくさん食べていいわ」
真白が微笑む。
「頑張ってくれたから」
我は、ありがたく、それを食べた。
魚は美味しく、体に染み渡る。疲れた体に、栄養が届く感覚。
食べ終わると、真白が我を抱き上げた。
「今日は、ゆっくり休んでね」
真白の腕の中で、我は、安らいだ。
温かい。
真白の腕の中は、いつも、温かい。
*
夜。
月が、空に浮かんでいた。
我は窓辺に座り、その光を浴びていた。月光が、微かに魔力を回復させる。
だが、完全に回復するには、まだ時間がかかるだろう。
今日使った魔法は、微弱だった。だが、我の今の力では、限界に近かった。
この体で、どこまで魔法が使えるのか。まだ、完全には分かっていない。
だが、一つだけ、確かなことがある。
真白を守るためなら、我は、この力を使う。
たとえ、体に負担がかかろうとも。
たとえ、寿命が削られようとも。
「玄丸、こっちにおいで」
真白が、布団の中から呼ぶ。
我は、真白の元へ行った。布団に潜り込むと、温かい。
真白が、我を抱きしめる。
「今日も、ありがとう」
真白の声が、優しく響く。
「守ってくれて」
その言葉を聞いて、我は、小さく鳴いた。
「にゃあ」
それが、我なりの、返事だった。
「これからも、一緒にいてね」
真白の声が、優しく響く。
「ずっと、ずっと」
その言葉を聞いて、我は、誓った。
ああ、そうだ。
我は、ずっと真白の傍にいよう。猫として。守り神として。そして、家族として。
たとえ、言葉が通じなくても。たとえ、姿が違っても。
心は、通じている。
それだけで、十分だ。
月光の下、真白の膝の上で、我は、静かに目を閉じた。
今日も、真白を、守れた。
それだけで、満たされていた。
【妖怪図鑑】
■庭守りの古狸
【分類】獣妖怪
【危険度】★☆☆☆☆(低)
【レア度】★★☆☆☆(普通)
【出現場所】屋敷の庭、神社の境内、古い森
【特徴】
長年同じ場所に住み着いた狸が、微弱な妖力を帯びた存在。完全な妖怪ではなく、妖怪化の初期段階にある。縄張り意識が強く、新参者を威嚇するが、本格的な戦闘能力は低い。人間には基本的に無害で、追い払われるとすぐに退散する。
【得意技】
・威嚇:「ぽんぽこ」と腹を鳴らして相手を驚かす
・擬態:木の根や石に化けて身を隠す(未熟で見破られやすい)
【弱点】
・戦闘経験が乏しく、強い相手には逃げ出す
・魔法や妖術に対する耐性がない
・気が小さく、大きな音や光に弱い
【生態】
主に夜行性だが、昼間も活動する。木の実や虫を食べる雑食性。縄張りを守ろうとするが、本質的には臆病で平和主義。人間の残飯を漁ることもあるが、悪意はない。
【玄丸の評価】
「ただの縄張り争いだったな。魔力もほとんど感じられず、戦闘能力も低い。微弱な風の術で十分に追い払えた。とはいえ、油断は禁物だ。妖怪化の初期段階とはいえ、普通の猫なら苦戦しただろう。我が真白を守る限り、この庭に侵入は許さん」
【遭遇時の対処法】
驚かさずに静かに立ち去らせるのが最善。攻撃してくることは稀で、こちらから危害を加えなければ問題ない。餌付けすると居着くため注意が必要。
【豆知識】
化け狸の中でも最も弱い部類で、「見習い化け狸」とも呼ばれる。さらに長生きし、妖力を蓄えると「化け狸」→「古狸」→「大狸」と進化していく。本格的な化け狸は人を化かす能力を持つが、この個体はまだその域に達していない。




