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【本編完結】平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
序章:転生と邂逅

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第三話「猫の作法」

猫として生きる。これほど屈辱的で、かつ困難なことがあるだろうか。


我が名は玄丸。元はアゼル・ヴァル=ローグという名の魔導王だった。だが今は、黒猫として真白の屋敷で暮らしている。


そして、猫には、猫の作法というものがあるらしい。それを、今日、嫌というほど思い知らされた。



朝。


目覚めると、奇妙な感覚が襲ってきた。下腹部に、妙な違和感がある。これは、まさか。


いや、まさか、だ。


我は魔導王だぞ。世界を統べし者だ。それが、こんな、生理的な欲求に。


「にゃあ……」


情けない声が出た。


だが、どうにもならない。猫の体には、猫の本能がある。そして、この違和感は、トイレに行きたい、という信号だ。


くそ。


我は布団から這い出た。真白はまだ眠っている。邪魔をしてはいけない。


だが、どこでこれを済ませればいいのだ?


庭か? いや、待て。真白の綺麗な庭を汚すわけにはいかない。


屋敷の外か? だが、この体で外に出るのは危険だ。野良猫や犬に襲われるかもしれない。


困った。実に、困った。


その時、部屋の隅に何かがあることに気づいた。木箱の中に、砂のようなものが敷き詰められている。


これは、猫用の厠、か?


真白が、我のために用意してくれたのだろう。ありがたい。実に、ありがたい。


だが、我が、魔導王が、こんなところで、用を足すのか?


プライドが、激しく抵抗する。


だが、生理的欲求は、プライドよりも強かった。


(……致し方あるまい)


心の中で呟いて、我は砂箱に近づいた。そして、本能のままに、砂を掘り始めた。


前足で、かりかりと。穴を掘って、そこに。


ああ、もう。考えるのはやめよう。


これは、生き物として当然の行為だ。恥じることではない。


と、自分に言い聞かせながら、我は用を足した。


終わると、また砂を掘って、痕跡を隠す。本能が、そうさせた。考える前に、体が動いていた。


(……何をやっているのだ、我は)


自己嫌悪に襲われた。


だが、すっきりはした。


これが、猫というものか。理屈ではない。本能だ。体が求めることに、従うしかない。


魔導王としてのプライドは、ここでは何の役にも立たない。



朝食の後。


真白が我を膝の上に乗せて、撫でていた。


「玄丸、ちゃんと砂箱を使ってくれたのね。偉いわ」


見られていたのか。恥ずかしい。実に、恥ずかしい。


だが、真白は何の嫌悪も見せず、優しく我を撫でる。


「猫を飼うのは初めてだから、ちゃんとできるか心配だったの。でも、玄丸は賢いから、すぐに慣れてくれて」


賢い、というか、本能に従っただけだ。


だが、真白の手が心地よくて、我は何も言えない。いや、言えないというか、「にゃあ」としか言えないのだが。


「今日は、お手入れをしてあげましょうね」


お手入れ? 何をするつもりだ?


真白が我を抱き上げて、別の部屋に連れて行く。そこには、櫛のようなものと、小さな桶に入った水があった。


「まずは、櫛を入れましょうね」


真白が櫛を手に取る。そして、我の背中を、優しく梳き始めた。


(うっ)


思わず声が出そうになった。これは、気持ちいい。実に、気持ちいい。


櫛の先が、毛皮を通して皮膚を刺激する。心地よい刺激が、背筋を走る。


「ごろごろごろ……」


喉が鳴った。また本能だ。だが、もういい。抵抗するのは疲れた。


真白の手が、丁寧に我の体を梳いていく。背中、脇腹、尻尾。特に、耳の後ろを撫でられると、思わず首を傾げてしまう。


「ふふ、喜んでくれているのね」


真白の声が、優しく響く。


喜んでいる、というか、降参した、というか。もう、どうにでもなれ。


「次は、顔を拭きましょうね」


真白が湿らせた布を手に取る。そして、我の顔を、優しく、拭き始めた。


目の周り、鼻の周り、口の周り。丁寧に、愛情を込めて。


この感覚、かつて、誰かにこんな風に世話をされたことがあっただろうか。


魔導王として生きた長い年月の中で、思い出せない。


いつも、我は一人だった。頂点に立つということは、孤独だということだ。誰も、我に触れることを許されなかった。誰も、我を対等な存在として扱わなかった。


だが、真白は、我を猫として、いや、家族として、扱ってくれている。優しく、丁寧に、愛情を持って。


「はい、綺麗になったわ」


真白が満足そうに微笑む。


その笑顔を見て、我は、思った。悪くない。猫として生きるのも、悪くない。少なくとも、真白の傍にいられるなら。



昼過ぎ。


我は、新たな試練に直面していた。爪、である。


猫の爪は、定期的に研がなければならないらしい。古い爪の殻を剥がし、新しい爪を出す。それが、猫の本能だ。


だが、どこで研げばいいのだ?


柱か? いや、真白の大切な屋敷を傷つけるわけにはいかない。畳か? それも同じだ。


我は悩んだ。


その時、庭の松の木が目に入った。木の幹、あれなら、傷つけても問題ないだろう。


我は庭に出て、松の木に近づいた。そして、前足を幹に当てて、がりがりがり。


(おおっ)


心の中で声が出た。これは、気持ちいい。


爪を研ぐという行為が、こんなにも満足感をもたらすとは。我は夢中になって、爪を研ぎ続けた。がりがりがりがり。


古い爪の殻が剥がれ、鋭い新しい爪が姿を現す。これが、猫の、本能。


「玄丸、何をしているの?」


真白の声がした。


振り返ると、彼女が微笑んでいた。


「爪を研いでいるのね。そう、そこでいいのよ」


真白が我に近づいてくる。


「松の木なら、少しくらい傷ついても大丈夫。思う存分、研いでいいわ」


その言葉に、我は、ほっとした。怒られるかと思ったのだ。


だが、真白は理解してくれている。猫には、爪を研ぐ必要があるということを。


「ただし」


真白が、人差し指を立てる。


「柱や畳では研いではだめよ。分かった?」


我は頷いた。猫の体で、小さく、頷いた。


真白は、それを見て、驚いたような顔をした。


「玄丸……今、頷いた?」


しまった。猫が頷くのは、不自然だったか。


だが、真白はすぐに笑顔になった。


「やっぱり、あなたは特別ね。まるで、人の言葉が分かるみたい」


そう言って、真白は我を抱き上げた。


その腕の中で、我は思った。真白は、気づいているのかもしれない。我が、ただの猫ではないということに。


だが、それを問い詰めたりはしない。ただ、受け入れてくれている。猫として、家族として。


ありがとう、真白。言葉にはできないが、心から、そう思った。



夕方。


我は、また新たな本能に襲われていた。毛づくろい、である。


猫は、自分の体を舐めて清潔に保つ。これも、本能だ。


だが、我が、自分の体を舐めるのか? 魔導王が?


プライドが、また抵抗する。


だが、体が、それを求めている。毛皮が汚れている感覚。それを綺麗にしたいという、強烈な欲求。


(……仕方あるまい)


我は、諦めた。


前足を舐める。ざらざらとした舌の感触。猫の舌は、細かい突起で覆われているのだ。それで、毛皮を梳くように舐めていく。


前足、胸、脇腹。体が柔らかいので、思いのほか色々な場所に届く。


そして、背中を舐めようとして、体を丸める。ぺろぺろぺろ。


夢中になって、舐め続ける。これは、意外と、悪くない。清潔になっていく感覚が、心地よい。


「あら」


真白の声がした。見ると、彼女が微笑んでいた。


「毛づくろいしているのね。猫らしくて可愛いわ」


可愛い、だと。我が? 魔導王が?


だが、真白がそう言うなら、まあ、いいか。


「でも、あまり舐めすぎると、毛玉ができるから気をつけてね」


 

毛玉? 何だそれは。


真白が説明してくれた。


「猫は毛づくろいで毛を飲み込んでしまうの。それがお腹に溜まると、吐き出さなければならなくなるのよ」


吐く、だと? それは、勘弁願いたい。


我は、毛づくろいを控えめにすることにした。本能は強いが、理性で制御できないわけではない。我は元魔導王だ。それくらいの自制はできる。


「賢いわね、玄丸」


真白が我の頭を撫でる。


「本当に、あなたは特別な猫ね」


その言葉が、心に染みた。特別、か。


かつては、世界で最も特別な存在だった。だが、それは孤独でもあった。今は、猫として特別。真白だけの、特別な猫。


それは、悪くない。むしろ、幸せかもしれない。


     *


夜。真白の部屋で、我は窓辺に座っていた。


月が、空に浮かんでいる。その光を浴びて、微かに魔力が回復する。


だが、今日は、魔法のことを考える気になれなかった。猫として生きる一日。かわや、櫛入れ、爪研ぎ、毛づくろい。全て、初めての経験だった。


そして、全てを、真白が優しく導いてくれた。怒ることも、笑うこともなく。ただ、家族として、受け入れてくれた。


「玄丸」


真白が、布団の中から呼ぶ。


「こっちにおいで」


我は、真白の元へ行った。布団に潜り込むと、温かい。


真白が、我を抱きしめる。


「今日は、色々と頑張ったわね」


頑張った、というか、必死だった、というか。


「でも、玄丸は本当に賢いわ。すぐに慣れてくれて、嬉しい」


真白の声が、優しく響く。


「これからも、ずっと一緒にいてね」


その言葉を聞いて、我は、思った。ああ、そうだ。


我は、ずっと、ここにいよう。真白の傍に。


猫として、家族として。それは、魔導王として生きた日々よりも、ずっと、幸せかもしれない。


「にゃあ」


我は、小さく鳴いた。それが、我なりの、「ありがとう」だった。


真白は、それを分かってくれたのだろうか。優しく、我を抱きしめてくれた。


その腕の中で、我は眠りに落ちた。


今日も、猫として、真白と共に。

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