第三話「猫の作法」
猫として生きる。これほど屈辱的で、かつ困難なことがあるだろうか。
我が名は玄丸。元はアゼル・ヴァル=ローグという名の魔導王だった。だが今は、黒猫として真白の屋敷で暮らしている。
そして、猫には、猫の作法というものがあるらしい。それを、今日、嫌というほど思い知らされた。
*
朝。
目覚めると、奇妙な感覚が襲ってきた。下腹部に、妙な違和感がある。これは、まさか。
いや、まさか、だ。
我は魔導王だぞ。世界を統べし者だ。それが、こんな、生理的な欲求に。
「にゃあ……」
情けない声が出た。
だが、どうにもならない。猫の体には、猫の本能がある。そして、この違和感は、トイレに行きたい、という信号だ。
くそ。
我は布団から這い出た。真白はまだ眠っている。邪魔をしてはいけない。
だが、どこでこれを済ませればいいのだ?
庭か? いや、待て。真白の綺麗な庭を汚すわけにはいかない。
屋敷の外か? だが、この体で外に出るのは危険だ。野良猫や犬に襲われるかもしれない。
困った。実に、困った。
その時、部屋の隅に何かがあることに気づいた。木箱の中に、砂のようなものが敷き詰められている。
これは、猫用の厠、か?
真白が、我のために用意してくれたのだろう。ありがたい。実に、ありがたい。
だが、我が、魔導王が、こんなところで、用を足すのか?
プライドが、激しく抵抗する。
だが、生理的欲求は、プライドよりも強かった。
(……致し方あるまい)
心の中で呟いて、我は砂箱に近づいた。そして、本能のままに、砂を掘り始めた。
前足で、かりかりと。穴を掘って、そこに。
ああ、もう。考えるのはやめよう。
これは、生き物として当然の行為だ。恥じることではない。
と、自分に言い聞かせながら、我は用を足した。
終わると、また砂を掘って、痕跡を隠す。本能が、そうさせた。考える前に、体が動いていた。
(……何をやっているのだ、我は)
自己嫌悪に襲われた。
だが、すっきりはした。
これが、猫というものか。理屈ではない。本能だ。体が求めることに、従うしかない。
魔導王としてのプライドは、ここでは何の役にも立たない。
*
朝食の後。
真白が我を膝の上に乗せて、撫でていた。
「玄丸、ちゃんと砂箱を使ってくれたのね。偉いわ」
見られていたのか。恥ずかしい。実に、恥ずかしい。
だが、真白は何の嫌悪も見せず、優しく我を撫でる。
「猫を飼うのは初めてだから、ちゃんとできるか心配だったの。でも、玄丸は賢いから、すぐに慣れてくれて」
賢い、というか、本能に従っただけだ。
だが、真白の手が心地よくて、我は何も言えない。いや、言えないというか、「にゃあ」としか言えないのだが。
「今日は、お手入れをしてあげましょうね」
お手入れ? 何をするつもりだ?
真白が我を抱き上げて、別の部屋に連れて行く。そこには、櫛のようなものと、小さな桶に入った水があった。
「まずは、櫛を入れましょうね」
真白が櫛を手に取る。そして、我の背中を、優しく梳き始めた。
(うっ)
思わず声が出そうになった。これは、気持ちいい。実に、気持ちいい。
櫛の先が、毛皮を通して皮膚を刺激する。心地よい刺激が、背筋を走る。
「ごろごろごろ……」
喉が鳴った。また本能だ。だが、もういい。抵抗するのは疲れた。
真白の手が、丁寧に我の体を梳いていく。背中、脇腹、尻尾。特に、耳の後ろを撫でられると、思わず首を傾げてしまう。
「ふふ、喜んでくれているのね」
真白の声が、優しく響く。
喜んでいる、というか、降参した、というか。もう、どうにでもなれ。
「次は、顔を拭きましょうね」
真白が湿らせた布を手に取る。そして、我の顔を、優しく、拭き始めた。
目の周り、鼻の周り、口の周り。丁寧に、愛情を込めて。
この感覚、かつて、誰かにこんな風に世話をされたことがあっただろうか。
魔導王として生きた長い年月の中で、思い出せない。
いつも、我は一人だった。頂点に立つということは、孤独だということだ。誰も、我に触れることを許されなかった。誰も、我を対等な存在として扱わなかった。
だが、真白は、我を猫として、いや、家族として、扱ってくれている。優しく、丁寧に、愛情を持って。
「はい、綺麗になったわ」
真白が満足そうに微笑む。
その笑顔を見て、我は、思った。悪くない。猫として生きるのも、悪くない。少なくとも、真白の傍にいられるなら。
*
昼過ぎ。
我は、新たな試練に直面していた。爪、である。
猫の爪は、定期的に研がなければならないらしい。古い爪の殻を剥がし、新しい爪を出す。それが、猫の本能だ。
だが、どこで研げばいいのだ?
柱か? いや、真白の大切な屋敷を傷つけるわけにはいかない。畳か? それも同じだ。
我は悩んだ。
その時、庭の松の木が目に入った。木の幹、あれなら、傷つけても問題ないだろう。
我は庭に出て、松の木に近づいた。そして、前足を幹に当てて、がりがりがり。
(おおっ)
心の中で声が出た。これは、気持ちいい。
爪を研ぐという行為が、こんなにも満足感をもたらすとは。我は夢中になって、爪を研ぎ続けた。がりがりがりがり。
古い爪の殻が剥がれ、鋭い新しい爪が姿を現す。これが、猫の、本能。
「玄丸、何をしているの?」
真白の声がした。
振り返ると、彼女が微笑んでいた。
「爪を研いでいるのね。そう、そこでいいのよ」
真白が我に近づいてくる。
「松の木なら、少しくらい傷ついても大丈夫。思う存分、研いでいいわ」
その言葉に、我は、ほっとした。怒られるかと思ったのだ。
だが、真白は理解してくれている。猫には、爪を研ぐ必要があるということを。
「ただし」
真白が、人差し指を立てる。
「柱や畳では研いではだめよ。分かった?」
我は頷いた。猫の体で、小さく、頷いた。
真白は、それを見て、驚いたような顔をした。
「玄丸……今、頷いた?」
しまった。猫が頷くのは、不自然だったか。
だが、真白はすぐに笑顔になった。
「やっぱり、あなたは特別ね。まるで、人の言葉が分かるみたい」
そう言って、真白は我を抱き上げた。
その腕の中で、我は思った。真白は、気づいているのかもしれない。我が、ただの猫ではないということに。
だが、それを問い詰めたりはしない。ただ、受け入れてくれている。猫として、家族として。
ありがとう、真白。言葉にはできないが、心から、そう思った。
*
夕方。
我は、また新たな本能に襲われていた。毛づくろい、である。
猫は、自分の体を舐めて清潔に保つ。これも、本能だ。
だが、我が、自分の体を舐めるのか? 魔導王が?
プライドが、また抵抗する。
だが、体が、それを求めている。毛皮が汚れている感覚。それを綺麗にしたいという、強烈な欲求。
(……仕方あるまい)
我は、諦めた。
前足を舐める。ざらざらとした舌の感触。猫の舌は、細かい突起で覆われているのだ。それで、毛皮を梳くように舐めていく。
前足、胸、脇腹。体が柔らかいので、思いのほか色々な場所に届く。
そして、背中を舐めようとして、体を丸める。ぺろぺろぺろ。
夢中になって、舐め続ける。これは、意外と、悪くない。清潔になっていく感覚が、心地よい。
「あら」
真白の声がした。見ると、彼女が微笑んでいた。
「毛づくろいしているのね。猫らしくて可愛いわ」
可愛い、だと。我が? 魔導王が?
だが、真白がそう言うなら、まあ、いいか。
「でも、あまり舐めすぎると、毛玉ができるから気をつけてね」
毛玉? 何だそれは。
真白が説明してくれた。
「猫は毛づくろいで毛を飲み込んでしまうの。それがお腹に溜まると、吐き出さなければならなくなるのよ」
吐く、だと? それは、勘弁願いたい。
我は、毛づくろいを控えめにすることにした。本能は強いが、理性で制御できないわけではない。我は元魔導王だ。それくらいの自制はできる。
「賢いわね、玄丸」
真白が我の頭を撫でる。
「本当に、あなたは特別な猫ね」
その言葉が、心に染みた。特別、か。
かつては、世界で最も特別な存在だった。だが、それは孤独でもあった。今は、猫として特別。真白だけの、特別な猫。
それは、悪くない。むしろ、幸せかもしれない。
*
夜。真白の部屋で、我は窓辺に座っていた。
月が、空に浮かんでいる。その光を浴びて、微かに魔力が回復する。
だが、今日は、魔法のことを考える気になれなかった。猫として生きる一日。厠、櫛入れ、爪研ぎ、毛づくろい。全て、初めての経験だった。
そして、全てを、真白が優しく導いてくれた。怒ることも、笑うこともなく。ただ、家族として、受け入れてくれた。
「玄丸」
真白が、布団の中から呼ぶ。
「こっちにおいで」
我は、真白の元へ行った。布団に潜り込むと、温かい。
真白が、我を抱きしめる。
「今日は、色々と頑張ったわね」
頑張った、というか、必死だった、というか。
「でも、玄丸は本当に賢いわ。すぐに慣れてくれて、嬉しい」
真白の声が、優しく響く。
「これからも、ずっと一緒にいてね」
その言葉を聞いて、我は、思った。ああ、そうだ。
我は、ずっと、ここにいよう。真白の傍に。
猫として、家族として。それは、魔導王として生きた日々よりも、ずっと、幸せかもしれない。
「にゃあ」
我は、小さく鳴いた。それが、我なりの、「ありがとう」だった。
真白は、それを分かってくれたのだろうか。優しく、我を抱きしめてくれた。
その腕の中で、我は眠りに落ちた。
今日も、猫として、真白と共に。




