第二話「猫と姫君の静かな日々」
屋敷での生活が始まった。
いや、正確には「生活」などという大層なものではない。ただ、真白の部屋の片隅で寝て、出された餌を食べ、時折外を眺める。それだけの、実に単調な日々だ。
だが、我にとっては全てが新鮮だった。
猫の体。
平安の都。
そして――真白という少女。
目覚めた時、我はまだ真白の部屋にいた。柔らかな布の上で、丸くなって眠っていたらしい。猫の本能が、自然と体を丸めさせるのだ。
魔導王の威厳も何もあったものではない。
「おはよう、玄丸」
真白の声で目が覚めた。
彼女はすでに起きていて、髪を整えているところだった。長い黒髪を、丁寧に梳いている。
我は「にゃあ」と鳴いた。
それしか、できない。
真白が微笑む。
その笑顔は、朝日に照らされて――まるで絵のようだった。
ふむ。
美しい、とは思う。客観的な事実として。
だが、それ以上の感情はない。我はただの猫で、彼女はただの人間だ。種族が違う。感情を持つなど、馬鹿げている。
……そう、自分に言い聞かせた。
「今日も良いお天気ね」
真白が障子を開けると、庭の景色が広がった。
白い砂利が敷き詰められた庭。
手入れの行き届いた松の木。
小さな池に、錦鯉が泳いでいる。
平安時代の貴族の屋敷――我が知識として知っていた光景が、目の前にある。
だが、知識と実際に見るのとでは、まるで違った。
静謐、という言葉がふさわしい。
何もかもが、静かで、穏やかで、雅だ。
我がいたアルメラ帝国は、常に喧騒に満ちていた。魔法の実験、軍の訓練、宮廷の陰謀――常に何かが動き、誰かが叫んでいた。
だが、ここは違う。
時間が、ゆっくりと流れている。
「玄丸も、外が見たい?」
真白が我を抱き上げて、縁側に連れ出してくれた。
初めて見る、屋敷の庭。
陽光が暖かく、風が心地よい。
「ここが私の家よ。藤原家の、北山の屋敷」
真白が、優しく語りかけてくる。
「父は今、都の役所にいるの。母は……体が弱くて、ほとんど寝ているわ」
淡々とした口調だったが、その奥に――寂しさが、あった。
我は、何も言えない。
ただ、「にゃあ」と鳴くことしかできない。
だが、真白は――我が何かを理解しているかのように、微笑んだ。
「ありがとう。あなたがいてくれるだけで、心が温かくなるわ」
その言葉に、我は――
少し、戸惑った。
我は何もしていない。ただ、ここにいるだけだ。
それなのに、真白は感謝してくれる。
何だ、それは。
理屈に合わない。
*
午前中は、真白の日常を観察することになった。
まず、朝食。
使用人が運んできた膳には、白米、焼き魚、漬物、味噌汁が並んでいる。質素だが、丁寧に作られた食事だ。
真白は、一つ一つを丁寧に味わって食べる。
急がず、焦らず、ただ静かに。
我にも、小さな皿に魚が分けられた。
昨日ほどではないが、やはり腹は減っている。我はがっついて――いや、できるだけ品よく食べようとした。
だが、猫の口で品よく食べるなど、至難の業だ。
「くすっ」
真白が笑った。
「玄丸、美味しい?」
我は「にゃあ」と答えた。
美味い。これは認めざるを得ない。
この時代の料理は、魔法で作られた帝国の豪華な食事に比べれば質素だが――なぜか、心に染みる味がする。
不思議だ。
朝食の後、真白は書物を読み始めた。
我は彼女の膝の上に乗せられた。
最初は驚いたが――膝の上は、暖かかった。
真白の体温が、我の小さな体を包み込む。
心地よい。
我は、そのまま丸くなった。
真白は、我を撫でながら本を読んでいる。その手が、優しく我の頭を撫でる。
「この話、知ってる?竹取物語よ」
真白が、我に語りかけてくる。
「月から来た姫君の、切ない物語……」
彼女の声が、心地よく響く。
澄んで、柔らかく、そして――どこか寂しげだ。
我は、その声を聞きながら――
眠りに落ちそうになった。
待て。
我は魔導王だぞ。膝の上で眠るなど――
だが、抗えなかった。
真白の声が、あまりにも心地よくて。
気がつけば、我は眠っていた。
*
目が覚めると、真白は和歌を詠んでいた。
筆を走らせ、紙に文字を綴っている。
和歌――この時代の、言霊の文化。
言葉に力を込め、心を表現し、そして――時に、現象を動かす。
真白の才能は、ここにあるのだろう。
彼女が詠む歌には――何か、特別なものがある。
「秋風に揺れる木の葉の散りぬるを惜しむ心に涙こぼれぬ」
真白が、小さく呟いた。
その瞬間――
庭の木の葉が、風もないのに、ほんの少し揺れた。
我は、それを見逃さなかった。
言霊だ。
真白の言葉が、現象に影響を与えた。
微弱ではあるが――確かに、力がある。
彼女は、無自覚なのだろう。
だが、その才能は本物だ。
興味深い。
「どう、玄丸?私の歌」
真白が、我を見て微笑む。
「あなた、本当に分かっているような顔をするのね」
我は「にゃあ」と鳴いた。
分かっているさ。我は魔導王だ。言霊の理論くらい、理解している。
だが、それを伝える術がない。
もどかしい。
「でも、嬉しいわ。あなたが聞いてくれるだけで」
真白が、再び我を撫でた。
その手が――温かい。
何だろう、この感覚は。
かつて、こんな風に触れられたことがあっただろうか。
帝国では、誰もが我を恐れていた。
敬意はあったが、親しみはなかった。
だが、真白は違う。
彼女は、我を――ただの猫として、優しく扱ってくれる。
それが――
心地よかった。
*
午後になると、使用人たちが部屋を訪れた。
「真白様、お茶をお持ちいたしました」
中年の女性――侍女だろう――が、盆を運んでくる。
「ありがとう」
真白が、優雅に茶を受け取る。
侍女の目が、我に向いた。
「まあ、可愛らしい猫ですこと」
「玄丸よ。昨日、拾ったの」
「まあまあ。お優しいこと」
侍女が、我を撫でようと手を伸ばす。
我は――
逃げた。
反射的に、真白の後ろに隠れた。
「あら、人見知りなのね」
侍女が、くすくすと笑う。
違う。人見知りではない。
ただ――真白以外に触られるのが、何となく嫌だっただけだ。
理由は分からない。
だが、そう感じた。
「ごめんなさいね。玄丸、まだ慣れていないの」
真白が、優しくフォローしてくれる。
侍女が去った後、真白が我を抱き上げた。
「大丈夫よ。怖くないわ」
彼女の声が、我を安心させる。
不思議だ。
我は魔導王だぞ。何も恐れることなどない。
なのに、真白の声を聞くと――
安心する。
これは――何だ?
*
夕方、真白は庭を散歩した。
我も、彼女について歩く――いや、よちよちと付いていく。
四本足での歩行は、まだ慣れない。バランスが難しい。
「ゆっくりでいいのよ」
真白が、我のペースに合わせてくれる。
庭の池の前で、彼女は立ち止まった。
「綺麗ね、この鯉」
錦鯉が、水面を優雅に泳いでいる。
我も、池を覗き込んだ。
そこに映っているのは――
黒猫。
我だ。
黒い毛皮、黄金色の瞳。
小さな、か弱い体。
これが、今の我か。
かつて世界を統べた魔導王が――
こんな姿に。
「玄丸?どうしたの?」
真白が、心配そうに我を見る。
我は「にゃあ」と鳴いた。
何でもない。ただ、自分の姿を確認しただけだ。
だが――真白は、何かを感じ取ったようだった。
「寂しいの?」
彼女が、我を抱き上げる。
「大丈夫。もう一人じゃないわ。私がいるから」
その言葉に――
我の心が、微かに震えた。
一人じゃない。
そうか。
我は、もう一人ではないのか。
帝国では、我は常に孤独だった。
頂点に立つ者は、常に孤独だ。
だが、今――
真白がいる。
この優しい少女が、我の傍にいてくれる。
それは――
悪くない、な。
*
夜、真白は再び和歌を詠んでいた。
月明かりだけが、部屋を照らしている。
我は、彼女の隣で丸くなっていた。
「月影の届かぬ闇に迷い込み光を求む猫の瞳よ」
真白が、小さく呟いた。
我のことを、詠んでいるのだろうか。
月影の届かぬ闇――確かに、我は闇の中にいた。
異世界から転移し、猫の姿で、飢えて死にかけていた。
だが――
光を求めた、か。
そうかもしれない。
そして、我は――光を見つけた。
真白という、光を。
「ねえ、玄丸」
真白が、我を見つめる。
「あなた、本当は何者なの?」
その問いに、我は――
答えられなかった。
「まるで、人のような瞳をしているわ。いいえ――人以上の、何かを見てきたような」
真白の洞察は、鋭い。
彼女は、気づいているのだろうか。
我が、ただの猫ではないことを。
「でも、いいの。何も聞かないわ」
真白が、優しく微笑む。
「ただ――一緒にいてくれるだけで、嬉しいから」
その言葉を聞いて――
我は、初めて思った。
ここにいよう、と。
真白の傍に。
理由は分からない。
ただ――そう、思った。
*
夜が更けて、真白は眠りについた。
我は、彼女の枕元で丸くなっている。
真白の寝息が、静かに響く。
穏やかな、安らかな眠りだ。
我は、目を閉じた。
今日一日――実に、何もない一日だった。
ただ、真白の日常を共にしただけだ。
だが、悪くなかった。
いや、正直に言えば――
心地よかった。
真白の声が。
真白の温もりが。
真白の優しさが。
全てが――心地よかった。
まだ自覚はしていない。
これが何を意味するのか、我には分からない。
だが――
一つだけ、確かなことがある。
我は――真白の傍にいたい、と思っている。
それが、なぜなのかは分からない。
ただ――
そう、思っている。
我が名は玄丸。
黒猫として、平安の都に降り立った、元魔導王。
そして――
藤原真白という少女の、猫となった。
これからの日々が、どうなるのか。
まだ、分からない。
だが、
真白の寝息を聞きながら、我は――
ほんの少しだけ、この生活が気に入り始めていた。




