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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第一章:都の小さな怪異

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第三十四話「ろくろ首の悩み」

泣き声がした、と思ったのは間違いで、笑い声でもなく、ただ誰かが夜の路地にしゃがみ込んでいる気配だった。


冬の夜は人の気配が少ない。だから余計に分かる。屋敷の裏手、水路沿いの細い路地に、何かがいる。


妖気は薄い。人間でもない。


我は塀の上から路地を見下ろした。


月明かりの中に、女がいた。


地面に膝をついて、両手で顔を覆っている。着物は薄い青みを帯びた白。髪は長く、地面に広がっている。泣いているのか、震えているのか、よく分からない。


ただ、首が、長かった。


人間の倍はあろうかという首が、灯りのない路地でゆるやかに揺れている。


     *


我は塀から降りた。


近づくと、女が顔を上げた。目が合った。


女はまず悲鳴を上げかけ、それが猫だと分かると、悲鳴を途中で止めた。


「……猫」


「にゃあ」


「……ごめんなさい。驚かせてしまった?」


猫に謝る妖怪というのも、なかなか珍しい。


「にゃあ」


「驚かせてない、ということ?」


「にゃあ」


我は女の前に座り、真っ直ぐに首を見た。長い、というのを改めて確認する。人の首の構造を持ちながら、その三倍ほどの長さに伸びている。皮膚は滑らかで、傷はない。ただ、長い。


「見ないでください」


女が両手で首を隠そうとした。


「こんな姿、自分でも怖いんです」


     *


話を聞くと、こういうことだった。


この女は、ろくろ首(轆轤首)という妖怪だ。昼間は普通の人間の女に見える。日が暮れると首が伸びる。本人の意志とは関係なく、夜になると伸びてしまう。


「止められないんです」


女が言う。


「眠っている間も伸びるし、目が覚めると枕から遠いところに顔があって。毎朝、怖いんです」


「怖いのか」


我は「にゃあ」と鳴いた。


「自分の姿が怖い、ということだ」


とは言えないが、そういう意味でもう一度、静かに鳴いた。


「ええ……おかしいですよね。自分の姿が自分で怖いなんて」


おかしくはない。


我は少し考えた。


ろくろ首の首が伸びることには、何らかの理がある。体の構造が人間と異なるのだから、異なる動き方をするのは当然だ。問題は、その動き方を本人が制御できず、しかも怖がっているということだ。


自分の持つ力を、自分が恐れている。


これは、単純に勿体無い。


     *


「何かに使えないか」


我は「にゃあ」と鳴きながら、周りを見回した。


高いところを見る。木の上。屋根の端。塀の上。


「使うって、この首を?」


「にゃあ」


「……どうやって」


我は塀に向かって歩き、塀の上に飛び乗った。そこから女を見下ろした。それから、塀の向こうを覗き込む動作をした。


女が少し考えた。


「……高いところが見える、ということ?」


「にゃあ」


「首が伸びれば、確かに……高いところから見渡せる」


「にゃあ」


女が自分の首を、おそるおそる持ち上げた。それから、ゆっくりと首が伸びた。一尺、二尺、三尺と、月明かりの中を静かに伸びていく。


女の顔が、塀の高さを超えた。


「見える」


女が、小さく言った。


「向こうの通りが、見える」


「にゃあ」


「……こんな使い方、考えたことなかった」


女は少しの間、高いところから路地を見下ろしていた。それから、首をゆっくりと戻した。


「特技、なんでしょうか。これが」


「にゃあ」


そうだ。


特技だ。制御できないことと、使えないことは、別の話だ。


     *


翌日。


我は真白にことのあらましを伝えた。


「にゃあ」と鳴きながら、路地の方向を向いた。「にゃあ」と鳴きながら、自分の首元に前足を当てた。「にゃあ」と鳴きながら、ゆっくりと頭を上に持ち上げる動作をした。


真白が首を傾けた。


「首が伸びる方?」


「にゃあ」


「ろくろ首?」


「にゃあ」


「昨夜、会ったのね」


「にゃあ」


「会わせてほしいの?」


我は少し間を置いた。


「にゃあ」


真白が少し笑った。


「分かった。行ってみましょう」


     *


女は翌夜も同じ路地にいた。


我が真白を連れてくると、女はまず縮こまった。人間に見られることを、まだ怖がっている。首を短く縮めようとして、うまくいかず、もどかしそうにしていた。


真白が膝をついた。女と目を合わせた。


「こんばんは」


真白の声は、静かだった。


「あなたのこと、玄丸から聞いたわ」


女が何も言えずにいると、真白が続けた。


「昨夜、高いところから何が見えましたか」


女が驚いた顔をした。


「……向こうの通りに、灯りがたくさんあって。それと、屋根の上に、猫が一匹いました」


「それは素敵ね」


真白が言った。


「私には見えない景色だわ」


女がまた黙った。今度の沈黙は、最初の沈黙とは少し違った。おびえた沈黙ではなく、考えている沈黙だった。


「……怖くないんですか。こんな姿」


「怖くはないわ」


真白が迷わず答えた。


「面白い、と思う。あなたにしか見えないものがあるって」


女の目が、少し揺れた。


「面白い、か」


「ええ」


「……そう言ってくれた人は、初めてです」


     *


その夜から、ろくろ首は時々、屋敷の近くに来るようになった。


頻繁に来るわけではない。十日に一度、あるいは半月に一度。夜の路地に現れて、真白と少し話をして、また帰っていく。


真白は毎回、彼女に「今夜は何が見えましたか」と聞いた。


ろくろ首は毎回、高いところから見た景色を話した。


屋根の上の霜。水路に映る月。遠くの山の輪郭。そういうものを、丁寧に言葉にして、真白に伝えた。


我はその様子を、縁側の端から眺めていた。


玄丸が「特技だ」と言い、真白が「面白い」と言った。それで、ろくろ首の何かが、少し変わった。


変わった、というのが正確かどうかは分からない。


ただ、高いところから路地を見下ろす時の女の顔が、怖がっているものと、少し違って見えた。


冬の夜風が、路地を渡っていく。


【妖怪図鑑】


■ろくろ首(轆轤首)

【分類】変異型妖怪・人型

【危険度】★☆☆☆☆(無害)

【レア度】★★★☆☆(都でも稀に目撃される)

【出現場所】人里近く、夜の路地、宿場町周辺。昼は人間に紛れて生活している


【特徴】


昼間は人間と見分けがつかないが、夜になると首が伸びる妖怪。本人の意志に関係なく日没後に首が伸び、眠っている間も伸び続ける。伸びる速度や長さには個人差があり、今回の個体は最大で三尺ほど、制御が難しい状態にあった。

特筆すべきは、この個体が自分の姿を恐れていたという点だ。他者から怖がられることを嫌う妖怪は多いが、自分自身の変化を怖がっている例は少ない。生まれつきではなく、成長の過程でろくろ首として目覚めたため、変化に慣れていなかった。

人を傷つける意図はまったくなく、むしろ隠れて生きることで他者との接触を避けようとしていた。


【得意技】

・首の伸長:夜間に首が伸びる。これ自体は特技だが、本人は当初うまく活用できていなかった

・高所視野:伸ばした首で高いところから広範囲を見渡せる。夜目も利く

・気配の察知:人間が近づく気配に敏感


【弱点】

・首の制御が難しく、意図せず伸びることがある

・人目を恐れて行動が制限される

・昼間は普通の人間とほぼ変わらないため、妖力としての防御力が低い


【生態】

単独で行動し、人里の近くに住む。完全に人間社会から離れることもできず、かといって妖怪たちの中に入っていくこともできない、境界的な存在。昼は人間として生活し、夜は首が伸びないよう工夫しながら過ごす。

食事は人間と同じものを食べる。妖力の補充については不明。

今回の個体は、玄丸と真白との出会いを経て、首が伸びることを「見える景色を伝える手段」として捉えるようになった。真白の屋敷を訪ねる際は、必ず何か面白いものを見つけて持ってくる。それが彼女の習慣になった。


【玄丸の評価】

「ろくろ首。自分の特性を怖がっていたが、使い道を示したら少し変わった。制御できないことと、使えないことは別だ。この道理は、我自身にも言えるかもしれぬ。猫の体で魔法が使いにくいことを嘆くより、使える形で使う方が合理的だ。真白が『面白い』と言ったのは、おそらく本心だろう。真白の言葉は、嘘をつく気配がない。そういう人間は、珍しい」


【遭遇時の対処法】

夜道でろくろ首に会った場合、まず落ち着くこと。彼女たちは人間を傷つけようとしていない。驚いて逃げると、追いかけられることがある(悪意はないが、心配して追ってくることがある)。

静かに挨拶をして、相手が落ち着いていれば普通に話しかけてみるとよい。「何が見えますか」と高いところから見た景色を聞くと、喜んで話してくれる場合がある。


【豆知識】

ろくろ首は日本各地に伝承が残る妖怪で、首が抜け出て飛び回る「抜け首」と、首が伸びる「伸び首」の二種類に大別される。平安時代の書物にも記録があり、長い歴史を持つ。

江戸時代には見世物小屋でろくろ首を見せる興行が行われたという記録があり、当時の人々にとって身近な妖怪の一つだった。水木しげる作品でも複数回登場し、怖い存在というよりも、どこか哀愁のある存在として描かれることが多い。

首が伸びる理由については諸説あり、「生き霊が抜け出た姿」「修行の失敗」「血筋によるもの」など、伝承によって異なる。いずれにせよ、本人にとっては制御しがたい変化であり、そのもどかしさが伝わってくる妖怪だ。

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