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平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
第一章:都の小さな怪異

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第三十三話「一反木綿の旅人」

何かが、空に引っかかっていた。


夕暮れ時、我は庭で伸びをしていた。冬の空は低く、雲が厚く積んでいる。その雲の切れ間に、白いものが見えた。


はじめは雲の端だと思った。


だが雲は西から東へ流れているのに、白いものは逆向きに動いていた。いや、動いているのではなく、漂っている。ふわりふわりと、行き先を定めかねているように。


細長い。


幅は一尺ほど、長さは一丈以上はあろうか。白い布が空に浮かんでいる、としか見えない。


妖気は薄い。だが確かにある。


我は耳を立てたまま、その白いものが降りてくるまで待った。


     *


それは庭の松の木に引っかかった。


風がないのに、ひらひらと落ちてきて、枝に巻きついた。そのまましばらく、ぐったりとしていた。疲れているように見えた。


我は松の木の根元に近づき、見上げた。


白い布だった。木綿もめんの布が、細長く、幅一尺ほどに畳まれたような形をしている。端が少しほつれている。表面に、うっすらと模様があった。


「……着いたか、どこかに」


布が言った。


声は布の真ん中あたりから出た。枝に巻きついたまま、ぐったりした調子で。


「ここは、どこじゃ」


「にゃあ」


我は鳴いた。


「……猫か」


「然り」


とは言えないが、そういう気持ちで尻尾を立てた。


「平安の都、か」


布がぐったりしたまま言う。


「都は分かる。だがここは、都のどの辺りじゃ」


我には都の地名を答える手段がない。


「にゃあ」


「……そうか。猫には分からぬか」


     *


話を聞くと、こういうことだった。


一反木綿いったんもめんという妖怪がいる。九州の山間やまあいに住む、細長い布の妖怪だ。夜空を飛び、人に巻きついて窒息させるとも言われるが、この個体にはそういう気配がまったくない。ただ疲れていて、道に迷っている。


「故郷に帰りたいのだが」


一反木綿が言う。


「どうして都にいるのだ」


「にゃあ」


と聞いた。


「秋の終わりに、風に乗って飛んでいたら、どんどん北へ流されてしまって。気づいたら都の近くまで来ておった。それから帰ろうとしているのだが、どちらが南か分からなくなってしまった」


なるほど。


方角が分からない。それは困る。


九州といえば、この都から西南の方角だ。距離にして相当あるが、空を飛べる妖怪ならば、方角さえ分かれば帰れるはずだ。


「にゃあ」


我は一反木綿に向かって鳴いた。


「夜になったら、また来い」


とは言えないが、そういう意味で空を見上げてから、一反木綿を見た。


「……夜が来たら、何かあるのか」


「にゃあ」


一反木綿がしばらく考えてから、枝の上でゆっくりと広がった。


「信じよう」


     *


夜になった。


雲が切れた。


冬の夜空は冷たく澄んでいる。星が、鮮明だった。


我は庭に出た。一反木綿は松の木の上で待っていた。今度はぐったりしていない。夜の空気を吸って、少し回復したようだった。


「星を見るのか」


「にゃあ」


我は空を見上げた。


星辰観測せいしんかんそく


前世のアルメラ帝国でも、星は方位の基準だった。あの世界と、この世界の星が同じかどうかは分からない。だが基本の理は変わらぬはずだ。天の北を固定点として、他の星がその周りを回る。北を定めれば、南も東も西も定まる。


我は目を細めた。


星を読む、というのは五行の術ではない。虚のうつろのことわり端緒たんちょに触れるものだ。界境かいきょうを越える感覚とは違う。もっと静かな、世界の骨格を読む感覚だ。


猫の肉体では、それを術として発動することはできない。


だが、読むことはできる。


空を、見る。


北の方角に、動かない星がある。まわりの星が少しずつ動いていく中で、一点だけ、ほとんど動かない。あれが北の基準点だ。


我はその星を、しばらく見つめた。


方角が、定まった。


「にゃあ」


我は庭の南の方向を向いてから、一反木綿を見た。


「南か」


「にゃあ」


「では西南か」


「にゃあ」


一反木綿がゆっくりと広がった。布が夜風に乗る。


「助かった。猫に助けてもらうとは思わなんだが」


「にゃあ」


「……礼を言う」


一反木綿が、ふわりと松の枝を離れた。夜空に向かって、静かに上がっていく。白い布が、星明かりの中でかすかに光った。


「次に都に来た時は、また寄らせてもらう」


「にゃあ」


我は見上げたまま、一反木綿が夜空に消えていくのを見届けた。


     *


翌朝、真白が庭に出てきて、松の木を見た。


「何かここに引っかかっていたの? 布みたいなものが見えた気がして」


「にゃあ」


「夢だったかしら」


「にゃあ」


真白が首を傾けた。


「玄丸は何か知ってる?」


「にゃあ」


「知ってるのね。でも教えてくれないのね」


「にゃあ」


真白が少し笑った。それ以上は聞かなかった。


我は松の木の根元に座り、昨夜の星の配置をもう一度、頭の中で確かめた。


虚の理は、術として使えない。猫の肉体では、その扉に触れることもできない。


だが、星を読む感覚は確かにあった。あれはアゼルの記憶から来るものか、それとも我自身の中にある何かか、判然としない。


判然としなくても良い。


星は昨夜も、今夜も、同じ場所に在る。


それだけで、十分だ。

【妖怪図鑑】


一反木綿いったんもめん

【分類】飛行系妖怪・布怪

【危険度】★★☆☆☆(伝承では危険だが、本個体は無害)

【レア度】★★★★☆(都では見られない。九州固有の妖怪)

【出現場所】九州地方の山間部、夜空。迷子になると都のような遠隔地にも出没する


【特徴】


鹿児島県を中心とした九州地方に伝わる妖怪。全長一反(約十メートル)の白い布の姿をしており、夜空を飛ぶ。伝承では人に巻きつき、窒息させる恐ろしい妖怪とされるが、今回出会った個体は温和で人懐こく、方向音痴という致命的な弱点を持っていた。

秋口に風に乗って飛び回っていたところ、季節風に流され都まで迷い込んでしまった。地上の地名や地理は分かるが、空から見た景色での方角判断が苦手らしく、数ヶ月間都の周辺を漂い続けていた。

端がほつれているのは、旅の疲れによるものだという。


【得意技】

・飛行:風に乗って自在に飛ぶ。順風の時は相当な速度が出る

・巻きつき:本来の攻撃手段だが、今回の個体は使いたがらない。「人を怖がらせるつもりはない」と言っていた

・布の変形:細長く伸びたり、丸まったりと形を変えられる


【弱点】

・方向感覚が壊滅的に乏しい(今回の個体の場合)

・空から見た地形と、地名が一致しない

・陸地では動きが鈍くなる。飛べない状態では布が垂れ下がるだけ

・疲れると木や建物に引っかかったまま動けなくなる


【生態】

九州の山間部に生息し、普段は人里に近づかない。夜に空を飛ぶのは習性で、昼間は山の木々の間に紛れて休んでいる。食事については不明。妖気が薄い割に長距離飛行できるのは、風の理を自然に活用しているためと思われる。

同種の一反木綿との交流については、ほとんど単独で行動しているようだった。「他の者と会ったことは、あまりない」と語っていた。


【玄丸の評価】

「一反木綿。九州固有の妖怪で、都で会うとは思わなかった。害意がなく、困った様子がはっきりしており、対処は容易だった。ただ、星を読んで方角を教えるという行為が、思いのほか我の内側に触れるものがあった。あれは何だったか。術ではない。だが、虚の理の最も遠い端に、何かが触れた感覚があった。前世の記憶が、少し、揺れた。一反木綿が無事に帰れたかどうかは確かめる術もないが、まあ、飛べるのだから何とかなるだろう」


【遭遇時の対処法】


夜空に細長い白い布のようなものが見えたら、一反木綿の可能性がある。伝承通りの危険な個体もいるかもしれないので、屋外で頭上から来る場合は注意すること。

ただし都では、迷子になった個体に出会う可能性の方が高い。その場合は方角を教えてやるだけで事態は解決する。目印になる山や川の名前より、星の位置を示す方が効果的だ。

謝礼は特に求めてこない。「ありがとう」と言って去っていくだけである。


【豆知識】


一反木綿は鹿児島県を中心とした南九州地方の妖怪で、特に薩摩さつま地方の伝承に色濃く残る。「一反」は布の単位で、成人の着物一着分の長さ(約十メートル)を指す。

水木しげる氏の漫画で広く知られるようになり、独特の親しみやすい造形が定着した。原典の伝承では、夜道を歩く人の首に巻きついて窒息させる恐ろしい存在とされているが、現代では比較的親しみやすい妖怪として扱われることが多い。

布の妖怪は全国各地に伝承があるが、これほど具体的な形(一反の布)として定着しているのは一反木綿が特に有名だ。

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