第二十九話「眠れぬ夜」
障子の向こうで、声がした。
くぐもった、小さな声。呼んでいるのか、うめいているのか、聞き取れない。
我は廊下で目を開けた。眠っていたわけではない。夜の屋敷の気配を拾いながら、半覚醒の状態でいた。猫の夜の習慣だ。
声は真白の部屋からだった。
立ち上がり、障子に近づく。
もう一度、声がする。今度ははっきりと。
「……やめ、て」
真白だ。
我は躊躇なく障子を頭で押し開けた。
*
部屋の中は暗かった。行灯の火はとうに落ちている。月明かりが障子越しに薄く差し込んでいるだけだ。
真白は布団の中にいた。眠っている。目は閉じたまま。だが体が強張っていた。膝を引き寄せ、肩が細かく震えている。
「……だめ、だめよ、それは」
唇が動いている。声にならない言葉が漏れる。
夢だ。しかも、良くない夢。
我は真白の枕元に近づいた。鼻を近づけて、呼吸を確かめる。乱れている。速い。夢の中で何かから追われているような、切羽詰まった息の乱れ方だ。
「……お母様、お母様っ」
真白の声が高くなる。顔が苦しそうに歪む。
母の名を呼んでいる。真白の母は今、病の床にある。その心配が夢に出ているのか、あるいは別の何かが入り込んでいるのか。
我は少し考えた。
風眠の術。木の理を用いた、眠りを整える技だ。荒れた夢を穏やかに凪がせる効果がある。完全に夢を変えることはできないが、嵐のような眠りを、せめて静かな水面にすることはできる。
消耗は小さくない。だが、今は使う時だ。
我は真白の肩のそばに前足を置き、喉の奥で低く音を作った。通常の喉鳴りとは違う。意識的に、木の理の振動を乗せた、細い波。
息を整える。
理を、流す。
*
術は、目に見えない。
ただ、空気が変わる。部屋の中の張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどける感覚。我の喉から出る振動が、真白の呼吸と少しずつ合わさっていく。
速かった息が、落ちてくる。
肩の震えが、止まっていく。
「……ん」
真白が小さく声を出した。苦しげな声ではなかった。眠りの深いところに沈んでいくような、柔らかい息の音。
顔から力が抜ける。眉が開く。閉じた目の周りが、さっきまでとは別の静けさになる。
よし。
我は喉鳴りを止めた。木の理を収める。使った分の消耗が、体の奥にじわりと来る。さほど深刻な量ではない。これくらいなら、明日には戻る。
真白の呼吸は、今は穏やかだった。
我は枕元に座ったまま、しばらく動かなかった。
*
どれほどそうしていたか。
真白の手が、布団の外に出てきた。ゆっくりと、眠ったままで。
指先が我の毛並みを探り当てる。
「……玄丸」
寝言だ。目は閉じている。
それでも、名前を呼んだ。
真白の指が、我の背中を軽く撫でる。眠りの中で手が動いている。我がそこにいることを、夢の中で感じているのか。
我は動かなかった。
真白の手が止まる。また、深く息を吸って、吐く。
眠っている。今度は、穏やかな眠りだ。
*
夜が明けるまで、我はそこにいた。
真白が目を開けたのは、空が白み始めた頃だった。障子の向こうで鳥が鳴き始めている。
「……玄丸?」
目を開けた真白は、枕元の我を見て、一瞬きょとんとした。
「いつからいたの」
我は「にゃあ」と鳴いた。
「もしかして、ずっといてくれたの」
真白が体を起こす。寝癖がついた髪が、肩に落ちる。目がまだぼんやりしている。
「……夢を見ていたの」
真白が膝を抱える。
「お母様が、遠いところに行ってしまう夢。追いかけたのに、追いつけなくて」
真白の声が、少し低くなる。
「怖かったわ」
我は真白を見た。
「でも」
真白が我を見る。
「途中から、温かくなった気がして。それで、ちゃんと眠れた」
真白が我に手を伸ばしてくる。頭を撫でる。
「玄丸がいてくれたから、かしら」
我は返事をしなかった。
「ありがとう」
真白の声が、静かだった。感謝というより、ただそこにある言葉、という感じだった。
「あなたがいてくれて、よかった」
我は真白の手の下で、目を細めた。
*
その後、真白は「もう少し横になる」と言って、また布団に入った。今度は穏やかに眠りに落ちた。
我は縁側に出た。
朝の空気が冷たい。冬が深くなっている。白んだ空に、まだ星が一つ残っている。
風眠の術は、眠りを整えることしかできない。夢の中身まで変えることはできない。真白が母を案じていること、追いかけても追いつかない夢を見ることは、術では消せない。
消す必要もない、か。
夢は夢だ。心の中にあるものが、眠りの中に形を借りて出てくる。それを無理に封じるより、眠りを深く保つほうが、翌朝の顔が違う。
真白は今、眠っている。穏やかな顔で。
それで、十分だ。
我は縁側で丸くなった。
冷たい朝の光が、少しずつ庭に広がっていく。
真白が起きてくるまで、ここにいよう。
なんとなく、そう思った。




