第二十六話「真澄の過去」
真澄が、庭の石に座っていた。
夕刻に近い時分、西の空が薄墨色に染まり始めている。彼は膝に手を置いたまま、池の水面を見つめていた。風もなく、水も揺れていない。ただ、じっと。
我は屋根の上から、その姿を眺めていた。
真澄の様子がおかしいのは、今日に限った話ではない。三日ほど前から、用事のない時間に庭へ出てきては、同じ場所に座っている。食事の量も減っているようだと、わらべが言っていた。
何を見ているのか。
我は屋根から飛び降りた。砂利の上に着地して、真澄の横まで近づく。
真澄は我に気づいているはずだが、視線は池から動かない。
我は真澄の隣に、黙って座った。
しばらく、二人で水面を見ていた。
「……玄丸殿」
しばらくして、真澄が口を開いた。声の底が、普段より低い。
「夕暮れというのは、不思議な刻でございますな」
真澄が水面に映る空を見る。
「昼でも夜でもない。どちらでもある。そういう時間が、我には妙に馴染みます」
我は真澄を見上げた。
どちらでもない。どちらでもある。それが、この男の言う己の在り様なのだろう。
*
真澄が口を開いたのは、それから少し後だった。
「玄丸殿は、我の生まれについてご存知でございますか」
問いかけというより、ひとりごとに近い調子だった。
我は「にゃあ」と、短く鳴いた。
「左様で」
真澄が膝の上で手を重ねる。
「葛上の一族は、古くから人と妖の境に生きてきた家でございます。純粋な妖でもなく、純粋な人でもない。どちらの世にも、完全には属せぬ」
真澄の声が、平坦だ。感情を抑えているというよりも、語り慣れていない言葉を、丁寧に選びながら並べているような調子。
「幼い頃の我は、人の集落に近い山の麓に住んでおりました。母は人でしたが、父は……人ではありませんでした。それがどういうことか、幼い我には、よく分からなかった」
真澄が指先で、膝を軽く叩く。間を置く癖らしい。
「集落の子供たちが石を投げてきたのは、七つの時でございます。理由は分からなかった。ただ、我がそこにいたから、気味が悪かったのでしょう」
静かな口調だった。怒りも、悲しみも、表面には出てこない。ただ、事実として述べている。
「母が庇ってくれました。だが、翌年、母は病で逝きました」
池が、微かに揺れた。風も吹いていないのに。
「それからは、山の中で一人でございました。妖の群れにも入れなかった。半端者は、どこにも居場所がありません」
真澄が、ようやく水面から目を離した。
視線が、屋敷の母屋の方へ向く。
*
「藤原の老公に出会ったのは、我が十二の秋でございます」
真澄の声が、ほんの少し変わった。
「真白殿の祖父上。当時はまだ藤原家の当主で、鷹狩りの途中に山へ入られていた。我はその時、罠にかかった狐を助けようとして、自分が藤の蔦に絡まっておりました」
我は、そこで耳を動かした。
助けようとして、絡まる。
まことに間の抜けた話だな、と思ったが、今は言う場ではないので黙っていた。
「老公は笑われました。声を出して。我はひどく恥ずかしかった」
真澄が、かすかに目を細める。それが照れなのか、何か別の感情なのか、判然としない。
「助けてくださった後、老公は我の顔をじっと見られて、こう仰いました。『お前は人か、妖か』と」
真澄が一息置く。
「我は正直に答えました。どちらでもないと。すると老公は、また笑って」
真澄が視線を落とす。
「『ならば丁度良い。人でも妖でも、どちらの話も聞ける家来が一人欲しかった』」
池の水面に、夕空の赤が映り始めている。
「それだけの理由で、拾われたのでございます」
真澄の声に、温度が混じっていた。怒りでも哀れみでもない。もっと、静かなもの。
「老公は最後まで、我を人か妖か、どちらかに決めようとはなさらなかった。ただ、傍に置いてくださった。それだけで、十分でした」
*
真白が縁側に顔を出したのは、その時だった。
「真澄、そこにいたの。もうすぐお夕飯よ」
真白の声が、庭に落ちる。
真澄がすっと立ち上がった。さっきまでの静けさが、音もなく仕舞われていく。
「只今参ります」
「玄丸も一緒においで」
真白が我を呼ぶ。
我は立ち上がりかけて、一度だけ真澄を見た。
真澄も、真白を見ていた。その目が、一瞬だけ、何かを映していた。
池が、また揺れた。
今度は、確かに風が吹いた。
*
夕餉の時間、真澄はいつも通りだった。
座る場所、箸の置き方、口数の少なさ。全て、変わらない。
我は真白の傍で小皿の魚を食べながら、真澄を観察していた。
真澄は、真白が何か言うたびに、そちらへ目を向ける。話を聞いている。相槌は打たない。ただ、聞いている。
真白が笑うと、真澄の表情が、わずかに緩む。誰が気づくかどうかという、ごく小さな変化だ。我には見える。
この男は、真白を守ろうとしている。それは分かっていた。
だが、庭で聞いた話の後では、その意味合いが少し違って見える。
老公に拾われた。居場所を与えられた。その恩を、真澄は姫君を守ることで返し続けている。
ならば、それだけか。
それだけでは、ないだろう。あの目は、恩返しだけの目ではなかった。
我は魚を一切れ食べた。
思案するのは、後でいい。今は食事だ。
「玄丸、もう一つ食べる?」
真白が小皿に魚を足す。
我は素直に食べた。
食事中に余計なことを考えるのは、我が猫の習性に反する。
そう自分に言い聞かせながら、もう一度だけ、真澄を見た。
真澄は箸を動かしながら、また真白を見ていた。
*
夜、我は縁側に出た。
雪はやんでいる。積もった白さが、月明かりを吸って淡く光っていた。
真澄の話を、繰り返し思い返していた。
居場所がない。どちらにも属せない。その痛みを、我は知識として理解できる。だが、体で知っているかどうかは、また別の話だ。
我は異世界では、誰よりも高い場所にいた。帝国を統べ、理を極め、誰も我と並べる者がなかった。孤独ではあったが、居場所のない孤独とは、また違う。
真澄の孤独は、我のものとは形が違う。
それでも。
「どちらでもない」者が、この屋敷にいる。
「猫の姿に封じられた魔導王」と、「人でも妖でもない半妖の家令」。
なかなか、珍妙な組み合わせだ。
我は毛繕いを始めた。前足で耳の後ろを丁寧に梳く。
ふむ。
真澄のことが、少し分かった気がする。
だからといって、それをどうするという話でもない。ただ、分かった。それだけだ。
縁側の向こうで、障子が一枚、細く開いた。
真澄が立っていた。
「玄丸殿」
我は前足を止めて、真澄を見た。
「本日は、妙なことをお聞かせいたしました」
真澄が静かに言う。
我は「にゃあ」と鳴いた。
「……そうでございますな」
真澄が目を細める。
「まことに、不思議な猫でございます」
障子が、また閉まった。
我は毛繕いの続きを始めた。
月が、雪の上に長い影を落としている。




