第二十四話「井戸の怪」
「玄丸、また井戸よ」
わらべが厨から飛び出してくる。三日前から、屋敷の古井戸がおかしい。水を汲もうとすると、声が聞こえる。誰もいないのに。
「お梅さんが怖がってる」
わらべが我の尻尾を引っ張る。
「玄丸、見てきて」
我は仕方なく立ち上がった。真白の膝から降りる。
「井戸に?」
真白が眉を寄せる。
「また声が?」
「うん」
わらべが頷く。
「さっき、お梅さんが『やめておくれ』って」
真白が立ち上がる。
「では、私も」
「姫君は」
真澄が現れる。
「拙者が参りましょう」
「でも」
「大丈夫です。玄丸殿もおりますし」
真澄が我を見る。目が笑っていない。行くしかないらしい。
*
井戸は、屋敷の裏手にある。古い。真白の祖父の代からあると聞く。石組みが苔むして、縁が欠けている。
「どうだ、玄丸殿」
真澄が井戸を覗き込む。我も覗く。暗い。底が見えない。水の匂い。土の匂い。そして、何か、いる。
「おお」
声がした。真澄が身構える。
「誰か、おるのか」
我は動かない。敵意は感じない。
「久しぶりじゃのう」
老人の声だ。井戸の底から響いてくる。
「人と、猫か」
「何者だ」
真澄が問う。
「わしか。わしは、ただの水じゃ」
笑い声。
「井戸の、な」
真澄が刀の柄に手をかける。
「霊か」
「霊、言うてもええ。水の、な」
また笑う。
「怖がるな。わしゃ何もせん」
「ならば、なぜ声を」
「寂しかったんじゃ」
声が、しぼむ。
「誰も、来んでな」
我は井戸の縁に前足をかける。水の気配を探る。確かに、いる。水そのものが、意識を持っている。
「猫殿」
声が我に向く。
「お前さん、妙な気配じゃの」
我は「にゃあ」と鳴く。
「ほほう」
声が嬉しそうになる。
「お前さん、分かるか。わしのこと」
我は頷く。水霊、だろう。長年この井戸にいて、水に魂が宿った。付喪神に近い。
「そうじゃ、そうじゃ」
声が弾む。
「分かってくれる者が、おった」
真澄が刀から手を離す。
「無害、か」
「無害じゃとも」
声が言う。
「ただ、話したかっただけじゃ」
「話、とは」
「昔はな、よう人が来た」
声が遠くなる。
「水を汲みに、な。朝も、昼も、晩も」
「娘たちが、おしゃべりしながら来た」
「子どもたちが、覗き込んで笑った」
「賑やかじゃった」
声が止まる。
「今は、誰も来ん」
沈黙。
「台所に、新しい井戸ができてな」
ああ、と我は理解する。屋敷の井戸は、確かに二つある。台所の近くに、新しいのが。
「古い井戸は、もう使われん」
声が寂しそうだ。
「わしも、もう終わりかと思うた」
「でも、な」
声が少し明るくなる。
「三日前、久しぶりに誰か来た。嬉しゅうてな、つい声をかけた」
「そしたら、逃げられた」
笑う声。だが、悲しそうだ。
「わしが、怖がらせたんじゃ」
真澄が井戸を見下ろす。
「そなた、寂しかったのだな」
「ああ」
「ならば」
真澄が考え込む。
「また、使わせてもらおう」
「ほんとか」
声が跳ねる。
「無論」
「嬉しい、嬉しいのう」
声が笑う。
「待っておる。また、来てくれ」
我は井戸から離れる。もう、声はしない。
「玄丸殿」
真澄が我を見る。
「そなた、最初から分かっていたな」
我は尻尾を揺らす。
「やはり、な」
真澄が井戸に一礼する。
「では、また参ろう」
*
屋敷に戻ると、真白が待っていた。
「どうでしたか」
「大丈夫です」
真澄が報告する。
「井戸の、古い霊でした」
「霊、ですか」
真白が目を丸くする。
「はい。寂しがっておりました」
「寂しい?」
「使われなくなって、な」
真澄が笑う。
「また使えば、喜ぶそうです」
「そう、なのですか」
真白が井戸の方を見る。
「では、使わせていただきましょう」
「姫君」
「だって、寂しいのでしょう?」
真白が微笑む。
「それなら、使って差し上げないと」
真白の優しさが、また出た。我は真白の足元に座る。
「玄丸も、そう思うでしょう?」
真白が我を見る。我は「にゃあ」と鳴く。その通りだ。
*
翌日から、古い井戸も使われるようになった。お梅が、朝一番に水を汲みに行く。わらべも、手伝いに行く。
「おはよう、井戸さん」
わらべが声をかけている。
「今日もよろしくね」
我も、時々覗きに行く。
「おお、猫殿」
声が嬉しそうだ。
「来てくれたか」
我は「にゃあ」と鳴く。
「ありがとうな」
声が穏やかだ。
「また、賑やかになった」
我は井戸の水を見つめる。水面が、揺れている。笑っているようだ。
物にも、魂は宿る。水にも、心はある。この世界は、そういう世界だ。理だけでは、測れない。我は、それを少しずつ学んでいる。
「玄丸」
真白が井戸にやってくる。
「お水、汲みに来たの」
真白が桶を下ろす。
「ありがとうございます、井戸さん」
真白が井戸に向かって言う。
「これからも、よろしくお願いいたします」
真白が一礼する。井戸から、小さな笑い声が聞こえた気がした。真白は気づいていないようだ。でも、井戸は喜んでいる。それで、十分だ。
我は真白と共に、屋敷へ戻る。古い井戸が、また使われている。新しい井戸も、古い井戸も。どちらも、大切だ。忘れられたものにも、価値がある。それを、この屋敷は知っている。真白は知っている。我も、知った。
*
夜、我は一人で井戸を訪れた。月が、水面を照らしている。
「猫殿か」
声がする。
「一人か」
我は「にゃあ」と鳴く。
「そうか」
声が優しい。
「お前さんも、寂しいのかな」
我は首を傾げる。
「いや、違うか」
声が笑う。
「お前さんは、誰かのこと思っとるな」
我は動かない。
「姫君じゃろう」
図星だった。
「分かる。水は、心を映す」
声が静かになる。
「お前さんの心、見えるぞ」
我は井戸を睨む。
「怒るな。わしは何も言わん」
声が笑う。
「ただ、な」
「何だ」
我は喉を鳴らす。もちろん言葉は通じないが。
「大切にせえ」
声が真面目になる。
「想う気持ち、な」
「忘れられるのは、辛い。わしが、よう知っとる」
我は、少し考える。この井戸は、忘れられた。使われなくなり、寂しかった。でも、今は違う。また、思い出してもらえた。我は、真白を忘れることはない。真白も、我を忘れることはないだろう。だが、油断はできない。大切にしなければ。
「ありがとう」
我は心の中で言う。
「ほほう」
声が驚く。
「今、何か。礼を言うたか」
我は尻尾を揺らす。
「そうか、そうか」
声が嬉しそうだ。
「猫殿、いい奴じゃな」
我は井戸を後にする。
「また来いよ」
声が背中に届く。
「待っとるからな」
我は振り返らずに歩く。月が、明るい。真白が、待っている。戻ろう。




