真澄外伝 第五十三話「卯の刻の乱入者」
卯の刻、まだ誰も起き出さぬ頃合いである。屋敷全体が青白い薄闇に沈み、廊下の板も冷え切っている。そんな中、ただ一匹だけ律儀に目を覚ます者がいた。小春だ。
竹籠から抜け出したその子は、まず我の尻尾に一撃を加えた。眠りを妨げられ、我は片目を開ける。理不尽な仕打ちだ。魔導王たる者のこの身を、遊び道具と勘違いするとは。
抗議の意を込めて尻尾を巻き取ったが、小春はそれで諦めるような性分ではない。今度は前足で我の耳をつつき始めた。
やむを得ぬ。我は身を起こし、廊下へと歩き出した。少しでも距離を取れば、この乱入者も飽きるはずだ。目算は、しかし甘かった。
小春は嬉々として後を追ってきた。とことこと軽い足音を立て、時折立ち止まっては前足で畳を叩く。何が楽しいのか、我には理解しかねる。猫という生き物の気まぐれには、いまだ慣れぬところがある。
廊下の角を曲がったところで、我らは葛上真澄(かずらがみ の ますみ)に出くわした。すでに身支度を整え、井戸端へ向かう途中らしい。
「早いお目覚めでございます」
彼はそう言って、我とその子を交互に見た。早いのはこちらの意志ではない。この乱入者に叩き起こされたのだ、とは言葉にできぬのが口惜しい。
小春は真澄の足元に駆け寄ると、袴の裾に前足をかけて登ろうとした。彼がすかさず身をかがめ、その体を抱き上げる。慣れた手つきだった。
「困った子でございます」
口ではそう言いながら、彼の指先は小春の喉元を丁寧に撫でていた。言葉と手つきが、まるで別の生き物のように食い違っている。人という生き物は、時折こういう矛盾を平然と抱える。
我としては、この光景を苦々しく眺めるしかない。あの尻尾への一撃を、この男は知らぬのだ。知らぬまま、被害者面もせずに撫でられているこの乱入者を見ていると、いささか腹立たしい。
「そなたも、起こされたようでございます」
その言葉に、我は片耳を伏せることで応えとした。肯定とも否定ともつかぬ仕草だが、彼はそれで通じたらしい。小さく息を吐き、口の端をわずかに緩めた。
井戸端に着くと、真澄は桶に水を汲み始めた。小春はその足元にまとわりつき、時折水面に前足を伸ばしては引っ込める。水の冷たさに驚いているのか、単に遊んでいるのか、判じかねる仕草だ。
我はその脇の縁石に腰を据え、この一部始終を眺めていた。朝の冷気が毛の間を抜けていくが、不快というほどではない。
やがて屋敷の奥から、真白の声が聞こえてきた。
「もう起きていらしたのですね」
彼女が廊下から顔を覗かせると、小春がすぐさま反応し、真澄の腕からするりと抜け出し、駆け寄っていく。忠誠心というものが、この子にはまるで備わっていない。都合のいい方へ、ただ流れていくだけだ。
「皆、随分と早いことでございます」
真澄がそう言うと、真白は小さく笑った。
「小春に起こされたのでしょう」
図星である。真澄は否定も肯定もせず、ただ静かに桶を持ち上げた。その沈黙が、何よりの答えになっていた。
日が昇り始め、庭木の影が少しずつ短くなっていく。乱入者はといえば、すでに満足したらしく、真白の腕の中で早くも船を漕ぎ始めていた。
我は縁石の上で、しばし呆れながらその寝顔を眺めていた。夜通し眠っていたはずが、また眠るというのか。羨ましいような、業腹なような、なんとも言い難い心地であった。




