真澄外伝 第五十四話「足音の数」
衣擦れに紛れて、爪先の触れる音が、もう一つ増えていた。
夜更けの廊下に、松明の灯りはとうに落とされている。月だけが板間を薄く撫で、影を長く伸ばしていた。庭では虫がまだ鳴いており、秋口の夜特有の、途切れては続く低い合唱が屋敷全体を包んでいる。真澄(かずらがみ の ますみ)は、手にした小さな提灯ひとつを頼りに、いつもの見回りに出ていた。灯りの始末、蔀戸の具合、庭に面した引戸の閂――日課として幾度も繰り返された足取りに、迷いはない。歩幅も、間隔も、ほとんど一定している。
我はその後ろを、爪先を立てずについていく。猫の耳は、人の耳よりも多くを拾う。この合唱に紛れる夜は、かえって人には聞き分けにくい音も、我にはたやすく拾えるものだ。
――その拍が、崩れた。
真澄の足音の合間に、もう一つ、何かが板に触れる音が挟まっている。間隔はほぼ等しい。だが、数が一つ多い。理として、あるべき数を超えている。
木の軋みか、板間の古い癖か。まずはそう当たりをつけ、我は歩む位置を変えてみた。廊下の角、継ぎ目の緩んだ板の上へ寄る。彼も同じ角を折れる。余分な音は、変わらずついてきた。
板の癖であれば、特定の一枚だけが鳴るはずだ。試しに我は歩みを半拍だけ遅らせ、その歩調からわざと外れてみた。すると、余分な音もまた、半拍だけ遅れて聞こえた。板ではない。この音は、真澄の足に、正確に寄り添っている。まるで一歩先に、もう一人分の足が置かれているかのように。
尾の先が、意識せぬうちに低くなる。耳が伏せる。毛繕いの間も惜しみ、我は前を行く背に意識を絞った。
厨の脇では、小春が桶の陰で丸くなっていた。腹の上下する寝息だけが規則正しく続き、耳の一つも動かない。異変を真っ先に告げるのが常のこの仔猫が、今宵は何一つ拾っていないらしい。その静けさの分だけ、我の尾は逆に強張った。感じ取れぬ類のものなのか、感じ取っても取り合わぬ類のものなのか、判じる材料が足りない。
真澄はそんな我の様子に気づく風もなく、引戸の閂を確かめ、蔀戸の具合を見て回る。庭先の暗がりへ、視線が一度だけ流れた。虫の声が、その一瞬だけ薄くなる。
そこでだ。
彼の足が、止まった。
歩幅の途中で不自然に止まり、袖の先だけがわずかに遅れて追いついた。灯りを持つ手の指が、柄を強く握り直す。それだけの、小さな変化。だが、我にはそれで十分だった。
「……今のは」
言葉は、そこで切れた。続きは紡がれず、真澄は息を一つ整えると、何事もなかったように歩みを戻す。振り返りはしない。訊ねる術も、我にはない。ただ、その横顔に灯りの陰影がいつもより深く刻まれているのを、見て取るばかりだ。
その先、庭を一巡りしても、何も見当たらなかった。落ち葉一枚、揺れる枝一本、変わったところはどこにもない。虫の声はいつの間にか元の厚みを取り戻し、蔀戸は閉め切られ、灯りは吹き消される。廊下は、また月明かりだけの中に沈んだ。
自室へ戻る道すがら、我は先ほどの拍を、幾度も数え直していた。真澄の足音、その合間に紛れた、もう一つの触れる音。あれが我一人の思い違いであったなら、まだ気は楽であった。だが、真澄の足も、確かに一度、止まったのだ。
――二人分、聞こえたということだ。
廊下の奥、闇の溜まる曲がり角を一瞥し、我は静けさの中へ足を進めた。答えは、まだそこにない。




