真澄外伝 第五十一話「小さき名の行方」
霜が屋根の端に薄く張り、朝の光を受けて細かく輝いていた。息を吐けば白く曇るほどの冷え込みだが、風はない。穏やかな朝だった。
「このままでは、いつまでも『あの子』のままでございます」
真白がそう言い出したのは、朝餉の片付けが済んだ頃だった。竹籠の中で丸まっていた仔猫が、名を呼ばれたと勘違いしたのか、片耳をひくりと動かす。
真名井実俊(まない の さねとし)が折よく顔を出したのは、その矢先である。陰陽寮の帰りに立ち寄ったという体だったが、彼女の顔を見に来ただけだろうと我は見当をつけている。
「名か。それは大事なことだ」
理屈っぽい男は、こういう時だけ妙に張り切る。腕を組み、しばし考え込んだのち、彼は自信ありげに口を開いた。
「五行に因んで、土鈴丸などはどうだろうか」
真白が困った顔で微笑んだ。真澄は何も言わず、ただ静かに目を伏せている。我としても、この命名には賛同しかねる。猫に土くれの鈴を背負わせるような響きだ。威厳のかけらもない。
「もう少し、可愛らしい方が」
真白がやんわりと退けると、実俊は不服そうな顔をしたが、すぐに次の案を絞り出した。
「では、雪丸ではどうだ。この寒さにちなんで」
悪くはない。だが、この仔猫の毛並みは雪のように白いわけではなく、褐色がかった斑がある。的を射ているとは言い難い。真白も同じ考えらしく、曖昧に頷くに留めた。
しばらく案が出尽くし、座敷に沈黙が落ちた。その子は自分の処遇など知る由もなく、籠の中で前足を舐めている。
「真澄は、何か思いつきませんか」
真白に水を向けられ、彼は珍しく言葉に詰まった。視線が一度、籠の中の仔猫に向く。それから懐のあたりに触れかけて、途中で止めた。
「差し出がましいことでございます」
「構いません。聞かせてください」
促されて、彼はようやく口を開いた。
「小春――という名を、思いついた次第でございます」
理屈で言えば、季節にそぐわぬ名である。今は冬の盛りだ。だが真白は目を丸くしたのち、頬を緩めた。
「まあ。なぜ、その名を」
「厨で使う炭の残り火を、あの子がよく好みますゆえ。冬の中にも、小さな暖かさがあるという意でございます」
言葉少なに、彼はそう続けた。理屈としては通っている。だが我には、それだけではない何かが、その口ぶりに滲んでいるように思えた。あの木片を懐にしまう時と、よく似た手つきだったからだろうか。断定はせぬ。ただ、そう見えたというだけのことだ。
実俊が腕組みを解いて、あっさりと白旗を上げた。
「土鈴丸より、よほど良い」
「私も、その名が好きでございます」
真白が籠の前にしゃがみ込み、仔猫に呼びかけた。
「今日から、小春ですよ」
仔猫は当然のごとく、名の意味など解さない。ただ差し出された指先の匂いを嗅ぎ、大きな欠伸をひとつしただけだった。それでも、その場にいた誰もが、何かひとつ片付いたような顔をしていた。
我は香箱の上から、その一部始終を眺めていた。名などというものは、所詮は人が便宜のために付ける記号に過ぎぬ。理屈ではそうだ。
だが真澄の口から出た「小春」という響きには、単なる記号以上の何かが含まれていた気がしてならない。人という生き物は、名ひとつにも妙なものを込める。厄介な生き物だ、まったく。
日が高くなり、霜はいつの間にか溶けていた。籠の中では、名を得たばかりの仔猫が、何も知らぬ顔でまた眠りに落ちている。




