真澄外伝 第五十話「木片の冷たさ」
紋様の刻まれた木片は、いつも懐の奥で息を潜めている。円の中に歪んだ線が幾筋も走る、あの小さな板切れだ。葛上真澄(かずらがみ の ますみ)がそれを取り出すのは、決まって誰の目もない時である。
今宵もそうだった。灯を落とした廊下の隅で、彼は懐から木片を取り出し、指先でその面をなぞった。何かを確かめるような、あるいは思い出すような手つきだった。我はその背に、そっと視線を這わせていた。
問い質す気はない。あれが何であるかは、いずれ知れよう。今は見るだけで十分だ。
木片をしまうと、彼は再び廊下を進み始めた。我はその足の運びに従い、後をついていく。塀際の一角に差しかかったところで、彼の歩みがわずかに緩んだ。
あの窪みのある場所だ。先だっての夜、地面だけが冷えていたという、あの一角である。今は霜も溶け、見た目には何の変哲もない土に戻っている。だが真澄は足を止め、しばし土の面を見つめていた。
「今宵は、何もないようでございます」
呟くように、それだけを言うと、彼は歩みを再開した。何かを期待していたのか、あるいは何もないことを確かめたかったのか。その表情からは判じかねる。
屋敷に戻ると、竹籠の中で丸くなっていた仔猫が、耳だけをぴくりと動かした。先だっての夜のように毛を逆立てるでもなく、ただ耳を一度動かしただけで、すぐにまた眠りに落ちる。
小さな身体の内で、何かが微かに反応したのだろう。だがそれは、警戒と呼ぶには弱すぎる。虫の羽音か、あるいは我らの足音か。理由はいくらでも考えられる。
真澄は文机に向かい、灯芯を整えた。炎が一度、揺れる。桐箱の底で見た揺れと、その形がよく似ていた。似ているだけで、同じだとは言い切れぬ。似ているという事実だけを、今は胸の内に留めておくべきであろう。
「近頃、灯の減りが早いようでございます」
独り言のように、彼はそう漏らした。灯油の減りが早いというだけの話だ。冬場は空気が乾き、火の勢いも増す。そう考えれば、何ら不思議のない現象である。
だが真澄の指先が、灯芯を整えたあとも、しばらく皿の縁から離れなかったことに、我は気づいていた。
「取るに足らぬことでございます」
彼はそう続けて、ようやく手を離した。誰に向けた言葉でもない。おそらくは自分自身への念押しだ。人という生き物は、時折そうやって、自らに言い聞かせる。理屈というより、癖に近いものだろう。
夜が更けても、我はしばらく眠らずにいた。塀際の窪み、木片の紋様、揺れる灯芯。ひとつひとつは些細な事柄に過ぎぬ。だがそれらを並べてみると、どこか同じ手筋で描かれた線のように思えてならなかった。
無論、思い違いということもある。かつての我も、そうして線を繋ぎ、幾度となく見当違いをしたものだ。
真澄が灯を消し、闇が満ちる。竹籠の中の寝息と、我自身の呼吸だけが、静まった部屋に残った。
窪みの冷たさが何によるものか、灯を揺らすのが何であるのか、我にはまだ答えがない。答えを急ぐ理由もない。ただ、線と線を繋ぐ手が、いずれ形になる日を、我は待っている。




