真澄外伝 第四十九話「温石は二つ」
「今宵は、ことのほか冷えますね」
真白がそう言って、蔀戸の隙間から庭を覗き込んだ。白砂の上に薄く霜が降り、松の枝が心なしか固く縮こまって見える。我はその足元で香箱の上に丸まり、尻尾の先だけを緩慢に動かして応えた。言葉はない。もとより我に、言葉は要らぬ。
「仔猫のことを、案じておられるご様子でございます」
問うたのは葛上真澄(かずらがみ の ますみ)である。返答の代わりに、彼は文机の隅に置いた竹籠へ視線をやった。籠の中では、丸く縮こまった小さな影がひとつ、規則正しい寝息を立てている。真白に拾われて以来、この屋敷の一員に収まった仔猫だ。
「あの子は毛が薄うございますゆえ、夜はことのほか冷えるでござろう」
真澄はそう言うと、懐から布に包んだ小さな塊を取り出した。丸く滑らかな石だ。竈の火で温めておいたものらしく、布越しにもほのかな熱が伝わってくる。
理屈で言えば単純な話だ。それは熱を蓄え、緩やかに放つ。ただそれだけの現象に過ぎぬ。だが人という生き物は、その単純な理を、これほど丁寧な手つきで扱う。我はその手つきを、飽きもせず目で追い続けていた。
彼は籠のそばに温石を置き、布の端でその子の背をそっと覆った。仔猫は身じろぎもせず、温もりに引き寄せられるように石へ寄り添う。真白がその様子を見て、目元を緩めた。
「真澄は、そういうところがお優しいですね」
「務めでございます」
短く答えて、彼は立ち上がった。素っ気ない声だが、耳の赤みまでは隠せていない。人の耳とは便利なものだ。感情を語らずとも、色でこちらに語りかけてくる。
夜が更け、真白が自室へ下がったのちも、我はしばし文机のそばで毛づくろいを続けていた。特に理由があってのことではない。ただ、あの家令が次に何をするのか、いささか気になっただけのことだ。
やがて真澄が戻ってきた。手には先ほどと同じ形の布包みがひとつ、握られている。
彼は迷う素振りも見せず、我の寝床――香箱の敷布の下に、その包みを差し込んだ。
なるほど、公平を期すというわけか。仔猫にだけ与えて我に与えぬのでは、片手落ちであろう。理屈としては筋が通っている。通ってはいるが、いささか釈然としない。我は魔導王として、常人の千倍もの理を操った身である。かような小石ひとつの温もりなど、本来なら物の数にも入らぬはずだ。
――入らぬはずなのだが。
敷布越しに伝わる熱は、思いのほか心地よかった。喉が勝手に鳴りそうになるのを、我は寸前で堪えた。堪えたつもりだが、彼がふと視線を寄越したところを見ると、どうやら間に合わなかったらしい。
「重畳でございます」
彼はそれだけ言うと、灯を落として文机の脇に腰を下ろした。夜番の役目があるのだろう、まだ休む気配はない。
しばらくして、籠の中の仔猫が身を起こした。石の温もりを独り占めするつもりはないらしい。籠を出て、とことこと畳を横切り、我の敷布へ潜り込んでくる。
順番というものを知らぬのか、この小さき同居人は。我は片耳を伏せて抗議の意を示したが、その子は素知らぬ顔で丸くなり、我の腹に背を押しつけてきた。それひとつでは足りぬと言わんばかりに。
無理やり押しのけるほどのことでもない。理屈で言えば、体温を分け合うのは効率がよい。ただそれだけのことだ。
「二匹とも、仲がようございます」
真澄の声に、我はわざと目を細めて見せた。仲が良いなどと、聞き捨てならぬ物言いだ。この者は日がな一日、あの家令の書付を踏み荒らし、筆を隠し、膝を奪い合う間柄なのだ。仲が良いというより、互いに一歩も譲らぬ好敵手というべきであろう。
彼は答えを待たず、文机に向き直った。灯の下、筆を執る背中はいつも通り寡黙で、余計な言葉を吐こうとはしない。だが先ほど懐から取り出した石の数だけは、我の記憶に確かに刻まれている。ひとつではなく、二つ。
温もりというものの数え方を、この男はよく心得ている。理屈では測れぬところで、である。
夜半、灯芯が一度だけ小さく揺れた。風のせいだろう。庭のどこかで木の枝が軋む音がして、すぐに止んだ。真澄の筆先が、ほんのわずかに止まったのを我は見た。だが彼はすぐに何事もなかったように筆を運び続け、それ以上のことは口にしなかった。
問い質すには、いささか眠気が勝ちすぎている。今宵のところは、これでよい。
敷布の下の石はまだ温かく、腹に押しつけられた仔猫の重みも、悪くはなかった。




