第二十二話「実俊の告白(未遂)」
実俊の様子がおかしい。
朝から何度も屋敷の前を行ったり来たりしている。門の前で立ち止まっては、また歩き出す。深呼吸して、また引き返す。
我は塀の上から、その姿を眺めていた。
数えてみる。三度、四度、五度。
六度目の往復で、実俊がようやく門を叩いた。
「真白殿にお取次ぎを」
声が裏返っている。普段の落ち着いた調子はどこへやら。
真澄が門を開ける。実俊の顔を見て、僅かに眉を上げた。
「真名井殿、本日は随分と」
「早いでしょうか」
「いえ、お顔色が」
「大丈夫です」
実俊が額の汗を拭う。まだ朝の冷気が残る時刻だというのに。
真澄が実俊を迎え入れた。庭を横切る実俊の背中が、やけに硬い。肩が上がり、歩幅が不自然に小さい。
何か企んでいる。
我は木から飛び降りて、後を追った。実俊が縁側に座る。懐から何度も巻物を出し入れしている。
*
「お待たせいたしました、実俊様」
真白が縁側に現れる。朝の日差しに照らされて、髪が柔らかく光っている。
実俊が立ち上がる。膝が震えているのが見える。
「真白殿」
「はい」
「本日は、あの」
言葉が続かない。実俊が額をまた拭う。
真白が首を傾げる。
「どうなさいました?お加減でも」
「いえ、その、元気です。いえ、元気というか」
実俊の手が懐を探る。巻物を取り出そうとして、手が震えて落とした。
巻物が地面を転がる。
我はその巻物に近づく。匂いを嗅ぐ。墨の匂いと、実俊の汗の匂い。
「あ、玄丸殿」
実俊が慌てて拾おうとする。我が先に巻物を前足で押さえた。
「玄丸、実俊様のものよ」
真白が笑う。
我は巻物から離れない。これは何だ。何が書いてある。
「玄丸殿、お願いですから」
実俊の額に、また汗が浮いている。
仕方なく退く。実俊が巻物を拾い上げた。手で巻き直す。だが手が震えて、うまく巻けない。
「すみません、真白殿」
「いいえ、玄丸が悪戯を」
「いえ、むしろ、その」
実俊が深呼吸する。一度、二度。
「真白殿、実は本日」
その時、わらべが厨から飛び出してきた。
「真白さまー!」
小さな足音が庭を駆けてくる。
「お菓子できたー!」
わらべが真白の袖を引っ張る。小さな手に、まだ粉がついている。
「まあ、もう?」
「うん!すっごく上手にできたの!玄丸の分もあるよー!」
わらべが我を見る。目が輝いている。
「今、実俊様とお話を」
「でも、熱いうちに食べないと美味しくないんだよ」
わらべが真白の手を引く。
「お梅さんも早く食べてって」
実俊の顔が青くなった。口が半開きのまま固まっている。
「あの、真白殿」
「申し訳ございません、実俊様。すぐに戻りますので」
「いえ、あの」
「本当にすぐですから」
真白がわらべに引きずられていく。
「待っててねー、実俊さまー」
わらべが振り返って手を振る。
実俊が座り込んだ。両手で顔を覆う。
我は実俊の隣に座る。
しばらく沈黙。
「玄丸殿」
実俊が顔を上げる。目が虚ろだ。
「私は、何をやっているのでしょうか」
実俊が空を仰ぐ。雲が流れている。
「情けない」
我は何も言えない。言えたとしても、何と言えばいいのか。
お前の気持ちは分かる。だが、真白は渡せない。
そんなことを言ったら、この男は泣くかもしれない。
「陰陽寮では、式神を使役し、怨霊を祓い、星を読むことができるのに」
実俊が両手を見る。
「どうして、想いひとつ、伝えられないのでしょう」
実俊の手が震えている。
我は実俊の膝に前足を乗せた。
実俊が我を見る。
「玄丸殿は、優しいですね」
実俊が苦笑する。
「真白殿が大切にするのも、分かります」
実俊が我の頭を撫でる。
「あなたは、真白殿の一番近くにいる」
実俊の声が小さくなる。
「羨ましい」
我は目を細める。
すまない、実俊。だが、この場所は譲れない。
*
真白が戻ってきた。手に盆を持っている。湯気が立ち上っている。
「お待たせいたしました」
「いえ」
実俊が姿勢を正す。また深呼吸。
「あの、真白殿」
「はい」
「本日、お話が」
真白が盆を置く。焼き立ての菓子が三つ。湯気が顔に当たって、実俊が目を細める。
「どうぞ、温かいうちに」
「ありがとうございます」
実俊が菓子を手に取る。だが口には運ばない。膝の上で持ったまま、じっと見つめている。
「真白殿」
「はい」
「私は、その」
風が吹いた。
楓の葉が舞い落ちる。一枚、また一枚。赤や黄色が宙を舞う。
その一枚が、ひらひらと落ちて、実俊の菓子の上に乗った。
「あ」
実俊が葉を払おうとする。菓子が手から滑り落ちた。
地面に転がる。白砂が菓子にまとわりつく。
沈黙。
我は葉を見上げる。よりによって今、か。
「大丈夫ですか」
真白が新しい菓子を差し出す。
「申し訳ございません」
実俊が両手で受け取る。今度は、しっかりと。
「では、落ち着いて、どうぞ」
真白が自分の菓子を口に運ぶ。
「美味しいわ」
実俊が菓子を口に入れる。噛む。味が分かっているのかいないのか。
「真白殿」
「はい」
「あの、本日は」
また風。
今度は強い。
実俊の巻物が飛んだ。
「あっ」
実俊が立ち上がる。巻物が宙を舞う。
「待って」
実俊が巻物を追いかける。庭を駆ける。だが巻物は風に乗って、さらに遠くへ。
我も追いかけた。これは本当に偶然だ。我は何もしていない。
巻物が池に落ちる。
ぽちゃん、という音。
実俊が呆然と立ち尽くす。
「嘘でしょう」
実俊の声が震えている。
「実俊様」
真白が駆け寄る。
「お怪我は」
「いえ、その、巻物が」
実俊が池を指差す。巻物が水面に浮いている。ゆっくりと沈んでいく。
真澄が竿を持って現れた。いつの間に。
「お取りいたしましょう」
真澄が竿を伸ばし、巻物を引っかける。引き上げる。
水が滴る。
びしょ濡れだ。墨が滲んでいる。
「乾かせばまた使えましょう」
真澄が実俊に渡す。
実俊が巻物を受け取る。両手が震えている。滴る水が、足元に落ちる。
「ありがとうございます」
声が小さい。
「実俊様、今日はお疲れのようですね」
真白が心配そうに顔を覗き込む。
「少しお休みになっては」
「いえ、私は」
実俊が何か言いかけて、止まった。濡れた巻物を見つめる。
「帰ります」
「え?」
「申し訳ありません、また改めて」
実俊が頭を下げる。
「お菓子、ありがとうございました」
実俊が足早に去っていく。背中が丸い。
真白が首を傾げる。
「どうなさったのかしら」
我は実俊の背中を見送る。
肩が落ちている。歩き方も、来た時とは違う。
わらべが縁側から顔を出す。
「実俊さま、もう帰っちゃうの?」
「ええ」
「お菓子、もっとあるのに」
わらべが残念そうに呟く。
我は庭に落ちた菓子を見る。白砂にまみれて、もう食べられない。
*
夕方、実俊がまた来た。
門を叩く音が聞こえる。だが、すぐに真澄の声がして、短い会話の後、また足音が遠ざかる。
我は縁側で昼寝をしていた。
「玄丸殿」
真澄が我を呼ぶ。
手に小さな包みを持っている。
「真名井殿が、これを」
真澄が包みを我の前に置く。
「玄丸殿に、だそうです」
我は包みに鼻を近づける。
干した魚の匂いがする。上等な品だ。
「『また出直します。その時は邪魔をしないでください』とのことです」
真澄が笑う。
「玄丸殿、何かご存知で?」
我は「にゃあ」と鳴いた。
何も知らない。本当に偶然だった。
わらべが飛び出してきたのも、風が吹いたのも。
だが。
胸の奥が、少しざわつく。
本当に偶然だったのか。
我は、実俊の告白を止めたかったのか。
確信は持てない。
ただ、真白と実俊が二人きりで話しているのを見て。
何か、落ち着かなかった。
実俊が真白に近づく。それだけで、妙な気分になる。
この気分に名前はあるのか。
「玄丸」
真白が縁側に座っている。
「こちらにいらっしゃい」
我は真白の元へ歩く。
真白が膝を叩く。我は飛び乗った。
「実俊様、何か悩み事があるのかしら」
真白が空を見上げる。夕焼けが空を染めている。
「最近、様子がおかしいの」
真白の手が、我の背を撫でる。
「陰陽寮のお仕事で、何かあったのかしら」
真白の声が優しい。実俊のことを案じている。
「心配だわ」
我は目を細める。
真白は優しい。誰に対しても。
実俊のことを心配する真白。
それはそれでいい。真白の優しさは、真白らしさだ。
だが。
我は真白に、実俊のことばかり考えてほしくない。
この感情は何だ。
独占欲、というものか。
嫉妬、というものか。
我には、まだ名前がつけられない。
ただ、確かなことがある。
真白の隣にいたいのは、我だ。
実俊ではなく。
「玄丸」
真白が我を抱き上げる。
「あなたは、いつも私の傍にいてくれるわね」
真白が微笑む。
「ありがとう」
我は真白の胸に顔を埋める。
心臓の音が聞こえる。規則的な鼓動。
温かい。
実俊には悪いが。
もう少し、失敗してもらおう。
我は、まだ真白を手放せない。
いや、違う。
手放したくない、のだ。
夕焼けが、二人を赤く染めている。




