真澄外伝 第四十二話「帳面を踏む猫」
朝方から降り続いた霧雨が、昼過ぎにようやく上がった。庭の土は黒く湿り、猫の足には些か歩きにくい一日である。
我はやむなく、屋内で時を潰すことにした。向かった先は、葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が帳面に向かう小部屋であった。
彼は文机の前に座り、筆を走らせていた。米や炭の出納を記す作業らしい。丁寧な筆致で、数字がきれいに並んでいく。
我はその傍らに腰を下ろし、しばし見物することにした。人の営みというものは、猫の目にはいつまで見ていても飽きぬ滑稽さがある。
だが、見ているだけでは我の名折れというもの。
前脚を伸ばし、筆の先を軽く叩いてみた。
「……」
家令の筆が止まる。だが咎める言葉はない。かわりに、筆をわずかに我から遠ざけただけであった。
その慎重さが、逆に我の興を引いた。今度は帳面の端に前脚を乗せ、めくれかけた紙をそのまま押さえ込んでみせる。
「それは、読めなくなるのでございます」
言葉少なに告げながらも、彼は筆を止め、紙を我の下から抜き取ろうとした。だが我は動じない。紙の上で香箱座りを決め込み、堂々とその場を占拠した。
「真澄、お邪魔をしているのね」
襖の外から、藤原真白の声がした。開けて顔を覗かせると、我の姿を見て小さく笑う。
「玄丸ったら、帳面が座布団だと思っているのかしら」
我としては、断じて座布団のつもりはない。ただ、この部屋が最も暖かいというだけの話である。だが、それを伝える術は我にない。
真白の問いに、真澄が短く答える。
「いささか、難儀しているのでございます」
その声には、存外、余裕があった。困っているというより、慣れているのだろう。
そこへ、廊下を進む足音が加わった。真名井実俊である。今日もまた、陰陽寮からの届け物を携えていた。
「邪魔をする。真澄殿、これを――」
言葉半ばで、実俊の視線が文机の上へ止まった。帳面の上に鎮座する我と、筆を宙に浮かせたままの彼。その組み合わせに、実俊はしばし言葉を失った。
「……仕事は、進んでおるのか」
「見ての通りでございます」
家令の返答に、皮肉の色はない。ただ事実を述べているだけである。実俊はそれ以上追及するのをやめ、届け物だけを置いて帳面の惨状から目を逸らした。
真白がくすくすと笑いながら、我の背を撫でる。
「今日は、そこがお気に入りなのね」
否定する術もなく、我はただ喉を鳴らして応じた。
真澄は結局、我が飽きて場を譲るまで、手を止めたまま静かに待ち続けた。急かす様子もなければ、無理に退かせようともしない。ただ、我が飽きるのを待っている。
暗くなる頃、ようやく我が文机を降りると、彼は何事もなかったかのように筆を執り直した。
「今日の分は、明日に回すこととなるのでございます」
そう呟く声に、疲れよりも、どこか穏やかな響きがあった。
猫に仕事の邪魔をされて怒らぬ男など、都広しといえど、そう多くはあるまい。我としては、なかなか見込みのある男である。




