真澄外伝 第三十九話「生姜湯騒動」
「今日は、皆で生姜湯を頂きましょう」
真白のその一言から、屋敷の午後は思わぬ方向へ転がり始めた。近頃、真澄も我も疲れているようだと、案じてのことらしい。志は尊いが、我はどうにも嫌な予感がしていた。
厨に立ったのは、お梅である。生姜をどれほど擦り下ろせばよいか、聞かれた彼女が「たっぷりと」とだけ答えたのがいけなかった。お梅は「たっぷり」を額面通りに受け取り、鍋いっぱいの生姜を惜しみなく擦り下ろした。
湯気と共に立ち上る匂いは、もはや薬湯の域を超えていた。我は鼻先だけをそちらへ向け、すぐさま引っ込めた。猫の鼻には、些か過ぎる代物である。
「良い香りでございますね」
真白は目を細めて言うが、隣で椀を運んできた蕗の顔は、心なしか強張っている。
そこへ、庭先から声がかかった。真名井実俊(まない の さねとし)である。陰陽寮からの届け物があるとかで、久方ぶりに屋敷を訪れていた。
「用件だけ済ませたら、すぐに戻る故――」
その台詞は、最後まで続かなかった。真白に椀を差し出され、断る間もなく手の中に収まっていたからである。
「せっかくですから、実俊様も」
彼は椀を覗き込み、一瞬だけ言葉を失った。生姜湯というより、生姜そのものを煮溶かしたかのごとき色合いをしている。
我は縁側の隅に退避しながら、成り行きを見守ることにした。巻き込まれるのは御免だが、見物するだけならば話は別だ。
「頂きます」
律義に一口含んだ実俊が、盛大にむせた。目に涙を滲ませながらも、真白の手前、不味いとは言えぬらしい。理詰めの男が言葉を失う様は、なかなかに見ものであった。
家令の方はといえば、いつも通り椀を静かに受け取り、口へ運んだ。
「……」
一瞬、その眉がわずかに動いた。だが声には出さぬ。喉を鳴らすでもなく、咳き込むでもなく、ただ黙って飲み干してみせる。忠義とは、時にこういう場面にも発揮されるものらしい。
「真澄殿は、平気なのですか」
実俊が涙目のまま問う。
「慣れておりますゆえ」
短く返す声に、微かな揺らぎがあった。慣れているはずがなかろう。だが、それを確かめる術は我にもない。
真白だけが、二人の反応に気づかぬ様子で満足げに頷いている。
「皆、顔色が良くなりましたね」
顔色が良いのではなく赤くなっているだけだ、と我は胸の内で断じたが、それを伝える言葉を我は持たぬ。
お梅は台所の奥で、次の鍋にまたそれを擦り下ろし始めていた。まだ足りぬとでも言いたげな顔である。蕗が慌てて量を減らすよう耳打ちしているのが見える。
我の分の椀は、幸いにも用意されなかった。猫にあの一杯を飲ませようとする者がいなかったことだけは、この日一番の幸運であった。
実俊が帰り際、真澄に一言だけ残した。
「次に伺う時は、水を持参致す」
「お待ちしております」
家令の返しに、皮肉の色はなかった。だが口の端が、ほんの僅かに緩んでいたのを、我は見逃さなかった。
寡黙な男が、こうも呆気なく気を許す夜もあるらしい。理由を問うたところで、恐らくは答えぬだろう。ならば我も、黙って見ておくとしよう。




