真澄外伝 第三十八話「桐箱の底」
物置の片付けを、葛上真澄(かずらがみ の ますみ)が言いつけたのは、霜の残る朝のことだった。我はその傍らに寝そべり、埃の匂いに顔をしかめながら成り行きを眺めていた。
積まれた古道具の中から、彼が手に取ったのは、掌に収まる程の桐箱だった。蓋の合わせ目には、長年の湿りが染み込んだ跡がある。
しばし、彼はそれを開けようとしなかった。指先だけが、蓋の縁をなぞる。理由を問うても答えぬ男だと、我はとうに知っている。ゆえに何も尋ねはしなかった。
蓋が開いた。中には、櫛が一つ。歯の一部が欠け、漆の艶もとうに失せている。だが、それを持ち上げた手つきは、壊れ物どころか、生きた何かを扱うようであった。
「……母の、形見でございます」
低く、そう告げる。誰に向けた言葉でもなかろう。我に聞かせるつもりも、恐らくはない。久方ぶりに開いた箱の底で、言葉が勝手にこぼれ出ただけだ。
我の鼻先が、その櫛へと向く。木片や北東の石に纏わりついていた、あの乾いた金気の匂いが、ごく微かに残っている。彼がこの気配に気づいているかどうかは、定かでない。
家令は桐箱を置き、次の荷を検めに部屋を出た。その隙に、我は前脚を伸ばし、それに触れた。
――禁を犯している。だが、知らずにいる方が、よほど危うい。
視界が、匂いごと過去へ吸い込まれた。
土に染みた湿りと、乾いた葉の音だけが残る場所だった。
莚の上に、幼い真澄が座っている。歳の頃は、七つか八つ。膝の上には、木の実の殻が幾つも並べられていた。
框の向こうから、志乃が入ってくる。手には、同じ桐箱があった。
「これは、母の母から受け継いだものよ」
彼女は幼子の傍らに膝をつき、蓋を開いて見せる。中の櫛を取り出し、幼い頭に軽く当てた。
「異形と謗られようと、これだけは、穢れぬままにおありなさい」
幼子は意味を問い返すこともせず、ただ櫛を見つめていた。子供心にも、その一言だけは、他の言葉とは違う重みを持っていたらしい。
母の声は、いつもより低かった。窓の外、竹藪の方角へ、一瞬だけ目をやったのを、我は見逃さなかった。
「母上、櫛は……父上のものでは、ないのですか」
問いに、志乃は答えなかった。代わりに幼子の頭を撫で、桐箱の蓋を閉じる。
灯明の炎が、風もないのに一つだけ揺れた。
母子は、どちらもそれに気づいていなかった。
視界が戻った時、我は桐箱の傍らで香箱のごとく丸くなっていた。廊下に足音がする。真澄が戻ってくる。
我は素早く、毛づくろいを装う。尻尾の先だけが、まだ小さく震えていた。
家令は箱を一瞥し、それから我を見た。何かに気づいた様子はあったが、口には出さない。
「今日は、大人しゅうしておいでのようでござろう」
「たまに、こうして手に取りとうなるのでございます」
そう続けて、彼は桐箱を懐にしまい込んだ。今日はもう、片付けを続ける気はないらしい。
我は答える術を持たぬまま、その背を見送った。
母が遺したのは、櫛だけではないのやもしれぬ。竹藪へ向けたあの一瞥の意味も、灯明を揺らした何かの正体も、当人はまだ知らぬままなのだろう。
知らぬまま守り、知らぬまま仕える。この男の忠義とは、始まりからそういうものだったのかもしれぬ。




