真澄外伝 第三十七話「膝の上の沈黙」
足音が、いつもより一拍遅れて廊下を踏んだ。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)の朝の見回りは、常であれば迷いのない歩調で進む。だが今朝は、途中で二度、立ち止まった。理由は我にもわかっている。眠りの浅い夜が続いているのは、彼だけの話ではなくなっていた。
我自身、ここ数日、まともに眠れていない。
「玄丸」
厨の脇を通りかかった折、真澄が足を止め、我を見下ろした。名を呼ばれただけで、他に用件はないふうであった。
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「今朝は、餌を残しておいでですね」
お梅が、盆を片付けながらそう零した。傍らで蕗が、興味なさそうに欠伸を噛み殺している。
「猫にも、食欲のない朝くらいございましょう」
蕗の呑気な返しに、お梅は肩をすくめただけで、それ以上は追及しなかった。二人にとっては、ただの些事である。
我はといえば、器の中身を半分ほど残したまま、広縁へ出た。腹が減っておらぬわけではない。ただ、今の我には、味を確かめる余裕がなかっただけである。
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昼過ぎ、真白の部屋の縁側で、我は久方ぶりに日向へ身を投げ出した。陽の温もりが、こわばった背中の毛を緩めていく。
「玄丸、こちらへいらっしゃい」
真白の声に応じて膝へ乗ると、いつもより優しい手つきで背を撫でられた。彼女は何かに気づいているというより、ただ習慣として、我の様子を気にかけているだけであろう。それでも今の我には、その手の温もりが、いつもより深く沁みた。
「あなた、この頃、あまり眠れていないのね」
図星であった。答える術は持たぬ。尾の先を、一度だけ緩く振った。
「実俊様も、真澄も、皆どこか疲れた顔をしているわ。私だけが暢気なのかしら」
軽い調子で告げながらも、真白の指は止まらない。この姫君は、屋敷の空気の揺らぎを、誰よりも早く感じ取る質である。理由までは尋ねぬところが、彼女らしいと我は思う。
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夕刻、真澄が茶を運んできた折、我は縁側で丸くなっていた。
彼はいつものように用件だけを済ませて下がるかと思いきや、我の傍らに膝をつき、しばしそのまま動かなかった。
「近頃、眠れておらぬのでござろう」
問いかけというより、確かめるような口ぶりであった。答えられぬ我の代わりに、沈黙だけが返る。真澄はそれを承知の上で、なお言葉を継いだ。
「そなたに問うたあの夜より、様子がおかしいのでござろう」
図星を突かれ、我は身じろぎ一つできなかった。彼は理由までは求めていない。ただ、己の一言が、我の中に何か重いものを置いていったことを、案じているだけである。
「答えずともよい。ただ、そなたが疲れていることだけは、私にもわかるのでございます」
その一言に、詫びの色は薄い。むしろ、共に抱えると告げるような響きであった。あの夜、我が真澄に一方的に問いを渡したように、今度は彼が、急かさぬ形で、我の重さを分けようとしている。
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夜更け、屋敷が寝静まった頃合い、我は縁側で独り、月を見上げていた。
明確な答えは出ぬままである。あの夢鏡で見た二つの影の正体も、彼を避けなんだ理由も、依然として霧の中にある。だが、今宵はそれを急いで解き明かそうとは思わぬ。
真澄の膝の温もりも、真白の指の柔らかさも、解にはならぬ。だが、出ぬ夜を独りで抱えずに済むという一点において、それらは確かに我を支えている。
――謎は解けずとも、傍らに誰かがいることだけは、疑いようもなく真であった。




