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【本編完結】平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
番外編

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真澄外伝 第三十六話「覚えていない自分」

知らぬ、ということには、二種ある。


初めから持たぬゆえに知らぬのと、かつて持っていたはずのものを取り落として知らぬのと。真澄の問いを受けてから幾夜か、我はその違いを繰り返し数えていた。


「そなただけは、昔より我を避けなんだのでござろう」


その一言が、耳の奥に居座って離れぬ。答えようとするたび、掴む先が霧に変わる。彼と初めて対面したあの満月の夜より前――そこに何があったかを、我は語れる言葉を持たぬ。アゼルとして世界を統べていた記憶は、指先の理まで鮮やかに残っている。だが真澄という個への覚えだけが、なぜか輪郭を欠いている。


覚えていないのではない。覚えているはずのものが、初めからそこに無いような、据わりの悪さである。


   *


その夜、我は珍しく眠れずにいた。


猫の身に眠りは易い。日々の理の消耗も、月光を浴びれば大方は癒える。それでも今宵ばかりは、瞼を閉じるたび真澄の声が甦り、意識だけが冴えていく。


ふと、思いついた。夢鏡(むきょう)の理は、これまで常に他者へ差し向けてきた。彼の記憶、母の言葉、竹藪の奥に揺れる気配――すべて我の外にあるものを覗く術である。ならば、己自身へ差し向けたことは、これまで一度もない。


無謀の誹りは免れぬだろう。だが、他に確かめる術を我は持たぬ。


爪先に力を込め、瞼の裏に理を巡らせた。


視界が、己の内側へ落ちた。


   *


そこにあったのは、景色と呼べるほどの形を持たぬものであった。


輪郭のない光と翳が、水面の揺らぎのように入れ替わる。人か獣か判じ難い小さな影が一つ、地に蹲っているのが見えた。幼い真澄の背格好に、よく似ている。


その傍らに、もう一つ、揺れる気配があった。


四つ足か、二本の足か。判然としない。ただ、その影が動くたび、乾いた金気の匂いが鼻先を掠めた気がした。北東の石で嗅いだものと、あるいは同じ棚に並ぶ品であるのか、この揺らぐ視界では見極めようがない。


近づこうとすれば、景色はさらに薄れる。掴もうとする手――否、爪先――が触れる寸前で、すべてが崩れ落ちた。


竹藪の奥、遠くで何かが哭いた。獣の声とも、風の音ともつかぬ、低い響きであった。


   *


視界が、元の暗がりへ戻った。


我は畳の上、四肢を投げ出したまま、しばし動けずにいた。心の臓というものが猫にあるならば、それは今、確かに乱れている。


何を見たのか、言葉にできぬ。真澄の記憶だとも、我自身の記憶だとも、断じることはできぬ。二つの影が誰と誰であったのか、竹藪の哭き声が何であったのか、何一つ確かめられぬまま、術は途切れた。


判明したのはただ一つ。夢鏡は、他者の心象を映すはずの理である。だというのに、あの光景の中に、我は確かに己自身の気配を感じ取った。


理では測れぬことを、理の力で覗こうとした報いであろう。ふさわしい罰と言えば、そうかもしれぬ。


   *


明け方、真澄が見回りに出る足音を、我は縁の下で聞いていた。彼はまだ、昨夜我が何をしたか知らぬ。知らせるつもりもない。今この段では、告げたところで互いの疑問が増えるだけである。


だが、彼の声だけは、幾度でも耳の奥で繰り返される。


――我は、いつから真澄を知っていたのだろう。

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