真澄外伝 第三十五話「知らなかった自分」
懐の一物が、皮膚越しに熱を持った。
葛上真澄(かずらがみ の ますみ)の足が、柿の木の下でふたたび止まった。今度は誰に見られてもいい、というふうに、はっきりと立ち止まったまま動かない。懐に手を差し入れ、木片の面を指の腹で確かめる。井戸端、北東の石、厨――これまで三度、同じ熱を覚えた。今日で四度目である。
我は塀の上から、その様子を見下ろしていた。
低く息を継ぐ音だけが、彼の唇から零れた。言葉になる手前で止まった呟きであった。
独り言にしては、はっきりとした気配であった。誰かに答えを求めているわけではない。ただ、確かめるように吐き出しただけである。
木片を懐へ戻し、真澄は梢を見上げた。葉も実も変わらぬというのに、そこだけ鳥の羽音がしない。彼の目が細まる。ここ数日、彼がこの木の下を通るたび、歩幅がわずかに乱れていたことを、我は知っている。本人が気づいていたかどうかは、また別の話である。
「烏も、雀も……。妙でございます」
誰へともなく呟き、真澄はしばし木の根元にしゃがみ込んだ。土に触れた指先を、そのまま鼻先に近づける。木の香りでも、土の香りでもない、あの乾いた匂いを探しているのだと、我にはわかった。
*
夕刻、広縁で繕い物をする真白の傍らに、真澄が茶を運んできた。用が済んでも、いつものように早々に下がらず、その場に留まっている。
「どうかしたの?」
真白の問いに、真澄はすぐには答えなかった。膝の上で、両の手を軽く握り直す仕草だけが、迷いを示していた。
「幼き日、犬や狐に、よく避けられていたのでございます」
前置きも脈絡もなく、ぽつりとそう告げた。真白が手を止め、顔を上げる。
「私が近づくだけで、獣たちは決まって間を置くのでござろう。理由は、母上も語らずじまいでございます」
過去を語る時だけ、語尾が緩む。それが真澄という男の癖であることを、我はこれまでの幾つもの夜で知っている。
「母上は、ただ一言、『獣は、正直なだけよ』と仰せになった、それだけを覚えているのでございます」
志乃の名を出さずとも、我にはそれが誰の言葉かすぐにわかった。真澄自身、その言葉の意味をずっと測りかねてきたのだろう。声の落ち着きの下に、長い年月の分だけ、答えの出ぬ棚が積まれているように見えた。
「なぜ、今そのことを?」
真白の問いに、真澄はわずかに視線を庭へ向けた。柿の木の梢が、夕焼けに黒く縁取られている。
「あの木の下も、烏が寄りつかぬのでござろう。……昔と、似ているように思えたのでございます」
そこで言葉を切り、真澄は自ら首を振った。似ているというだけで、繋げていい話ではない――そう己を戒めるような仕草であった。真白は何も言わず、彼の手に自分の手を重ねた。案じる素振りだけで、詮索はしない。この姫君の、そういうところを、我はずっと好ましく思っている。
*
夜、真澄が見回りに出た後、我は独り、広縁の柱にもたれて庭を眺めていた。
彼は今日、初めて自分から、幼き日の異変を口にした。玄丸に見せられた爪痕や紋様の石を「共に見届ける」と告げた時とは違う。今度は、外から示されたものではなく、彼自身の内から出てきた記憶である。
答えに辿り着いたわけではない。むしろ、疑問がひとつ増えただけだろう。だが、疑問を疑問として掴めるようになったこと自体が、これまでとの違いである。
塀際の見回りから戻ってきた真澄が、我の傍らを通りかかった。灯りを提げたまま、ふと足を止める。
呼びかけられた心地がして、我は顔を上げた。彼が、我の名だけを小さく口にしていた。
「そなただけは、昔より我を避けなんだのでござろう」
理由を問うでもなく、答えを急かすでもない。ただ、気づいたことをそのまま口にしただけの調子であった。灯りが小さく揺れ、彼の顔の陰影が動く。
我は答えられぬ。答える術も持たぬ。だが、その一言が、我の中の何かを静かに揺らしたことだけは確かであった。
――彼はまだ、我に問うただけである。だが、問いを立てられる者は、いずれ答えにも近づく。それが人という生き物の、厄介なところである。




