真澄外伝 第三十四話「獣の退く匂い」
焚かれた枯葉の煙に、ふと乾いた香りが混じった。
厨の裏手で、蕗が落ち葉を掃き集め、火を放っていた。木と土の匂いに紛れて、ほんの一筋、金気を帯びた匂いが立ち上る。柿の木の下で嗅いだあの匂いとは違う。だが同じ棚に並べられた品のように、どこか近しい気配がある。
その傍らを通りかかった葛上真澄(かずらがみ の ますみ)の足が、止まった。
止まったというより、止まりかけて、すぐに何事もなかったふうに歩を進めた、というのが正しい。だが我の目は誤魔化せぬ。頬の筋が一瞬強張り、鼻先がわずかに持ち上がる。獣が風上の匂いを嗅ぎ分ける時の仕草に、よく似ていた。
本人は気づいていない。あるいは、気づかぬふりを己に強いている。
我の中で、確かめたいという想いが理を押しのけた。許しを得ぬ行いだとは承知の上である。夢鏡の理を、彼の眠りではなく、この一瞬の記憶の残響へ差し向けた。
匂いが、我を過去へ引きずり込んだ。
*
土間の隅に、幼い真澄がいた。
七つか八つ、まだ手足の骨が細い頃合いである。村の犬が繋がれた縄の端で、彼に向かって歯を剥いていた。唸り声すら出さず、ただ後ずさり、爪で土を掻いている。
「おい、なんでお前が来るとルウは唸るんだ」
同じ年頃の童が、犬の首を撫でながら訊ねた。悪意はない。ただの疑問である。真澄は答えず、犬から目を逸らして、その場を離れた。何度目かは知らぬが、初めてではないことだけは、彼の足取りの静けさから知れた。
村の外れ、竹藪の際でも同じことが起きた。狐の親子が、彼の足音を聞くなり茂みの奥へ駆け込んだ。他の童が近づいても逃げぬのに、彼が近づくと、決まって獣たちは間を置いて距離を取る。
理由を、彼はまだ知らぬ。母の志乃だけが、時折、彼の頭を撫でながらそれを見つめていた。
「獣は、正直なだけよ」
短くそう告げるだけで、志乃はそれ以上を語らなかった。慰めとも、突き放しともつかぬ声音であった。真澄は頷いたが、腑に落ちた顔ではなかった。
夕暮れ、井戸端で水を汲む二人の背後、竹藪の奥に、獣とも人ともつかぬ気配が一つ、確かに揺れていた。母子は、それには気づいていない。
*
匂いが、我を今へ押し戻した。
蕗の焚く煙は、もう風に流れて薄くなっている。真澄は何事もなく厨の方へ歩き去るところであった。
我は縁の下から、その背を見送った。生き物が彼を避けるのは、村の犬や狐だけの話ではなかったのだろう。あの柿の木の烏も、あの日の女中の膝の縮こまりも、彼自身がずっと知らぬ間に纏ってきた何かと、遠く繋がっているのやもしれぬ。
だが、それを言葉にすれば、彼はどう受け止めるだろうか。長きにわたり獣から避けられてきた者に、今度は屋敷の木からも避けられていると告げることの意味を、我はまだ量りかねている。
――彼を避けたのは、けものだけではなかった。だが、彼を初めて避けなかった者もまた、確かにいた。




