真澄外伝 第三十三話「烏の避ける木」
塀際の柿の木は、今年に限って実をたわわに残していた。
赤く熟れた実が、風もないのに一つ二つと落ちて地に転がっているというのに、枝には枯葉一枚落ちる音より軽い羽ばたきすら近づかない。例年ならとうに啄まれ、皮だけの残骸が散らばっている頃合いである。
「今年はまあ、烏の一羽も寄りつかんこと。もったいない話でございますよ」
厨の板間で、お梅が実の数を指折り数えながらぼやいていた。彼女にとってはただ、収穫の目算が狂ったという程度の話らしい。渋抜きの手間や、来客への振る舞いに使う予定だった実の余剰を、そろばん勘定のように口にしている。
「烏がいないのは、静かでよいではありませんか」
答えたのは、笊を抱えて通りかかった蕗である。お梅の下で働き始めてまだ数年の若い女中で、こういう時にだけ呑気な口を利く。
我はその足元をすり抜け、庭へ出た。柿の木は、あの塀際の一角――霜の窪みがあった場所から、目と鼻の先である。
見上げれば、木そのものに何の変わりもない。葉も実も健やかである。ただ、その周りの空気だけが、他の庭木の周りより幾分か張り詰めているように感じられた。理由を言葉にできぬのは、我としても業腹なことである。
「あら、この木の下、涼しいこと」
蕗が笊を地に置き、袖で首元を扇ぎながら呟いた。師走にはまだ間があるというのに、まるで初冬の廊下に立ったような口ぶりである。彼女自身、自分の言葉に大した意味を見出してはいない。ただの世間話として、洗い物を続けるためにしゃがみ込んだ。
その膝先を、我はじっと見つめた。地面に残る霜の名残はすでにない。だが彼女の指先が土に触れた瞬間、ほんの一拍、肩が小さく縮こまるのを我は見た。
*
昼餉の折、真澄が広縁を通りかかった。お梅がその話を蒸し返す。
「真澄様、今年の柿はどうしたものでございましょうねえ。烏どころか、雀も寄りつきませぬ」
「見張りが増えたゆえ、鳥も遠慮しておるのでござろう」
軽い返しであった。冗談とも本気ともつかぬ調子で告げると、真澄はそのまま奥へ向かった。だがその足が、柿の木の下を通り過ぎる刹那、わずかに乱れた。歩幅が半分だけ狭くなり、すぐに元へ戻る。本人はおそらく気づいていない。
我は縁の下から、その背を見送った。彼が何を感じ取ったのか、当人にすら明らかではないだろう。だが猫の毛並みは、人よりも先に空気の色を読む。あの一角を通る誰もが、理由のわからぬまま半歩、足を緩めている。
*
夕刻、真白の部屋を訪れると、彼女は文を書く手を止め、庭に目を向けていた。
「ねえ、あの柿の木、今年は烏が来ないのね」
我は文机に飛び乗り、彼女の視線の先を追った。梢に、確かに一羽の影もない。
「不思議だこと。餌が少ないわけでもないでしょうに」
真白の声には、不安の色はない。ただ季節の些事を語る口ぶりである。彼女はまだ、あの塀際で霜の上に窪みが二つ並んでいたことを知らぬ。真澄が石と井戸と厨だけを検め続けていることも、知らぬ。
だが、鳥という鳥がその木を避け、女中の膝が理由もなく縮こまり、家令の足が半歩乱れる。誰も互いのそれを結びつけてはいない。それぞれが、それぞれの理由で「今年はどうも」と首を傾げているに過ぎぬ。
我だけが、それらを一枚の絵として眺めている。その絵の中央に、あの二つの窪みがあるように思えた。
「玄丸、あなたも何か気になるの?」
真白の指が、我の顎の下を撫でた。応える術はない。尾の先を、ただ一度だけ床に打ちつけた。
*
夜が更け、屋敷が寝静まった頃合いを見計らい、我は再び塀際へ足を運んだ。
霜はまだ降りていない。窪みの跡形もない。だが柿の木の下に立つと、皮膚の内側を撫でられるような、あの覚えのある冷たさが、確かに残っている。
爪痕でも、匂いの残滓でもない。ただ「そこだけが違う」という感覚だけが、日を追うごとに濃くなっている。誰も名指しできぬものは、誰にも警戒されぬ。烏でさえ本能でそれを避けているというのに、人はそろばんや世間話でその意味を覆い隠してしまう。
いずれ真澄の耳にも届くだろう。柿の話も、蕗の涼しいという一言も。だが今はまだ、それぞれが別々の小さな違和感のままでいい。一つに繋がった時、この屋敷がどう動くかを、我はまだ見極めきれていない。
――鳥は理を語らぬ。ただ避けるのみ。人よりよほど、正直な生き物である。




