真澄外伝 第三十二話「見張りの外側」
深更、屋敷の甍を撫でる風の下から、乾いた小枝の折れる音が一つだけ届いた。
耳がそちらへ向く。北東、あの石のある藪の方角である。我は身を起こし、廊下の暗がりを縫って濡れ縁へ出た。爪先に夜露が沁みる感触より先に、屋敷の奥で人の動く気配が立った。
「た、誰かおるぞ!」
寝ずの番に立っていた下男の声が、上ずったまま夜気を裂いた。続いて廊下を踏み鳴らす足音が二つ、三つと重なる。
その先頭を切って庭へ下りたのは、夜着の上に羽織を引っかけただけの葛上真澄(かずらがみ の ますみ)であった。すでに片手は腰の物へと伸びている。この幾夜か、彼の眠りは浅くなっていた。戸締まりの見回りを一人で二度に増やしてから、なおのことである。
石のあたりに近づくほど、その足音が慎重になる。抜き身にはせぬまでも、鯉口を切る音が微かに鳴った。
藪の際に、影が一つ蹲っていた。
丸い背、太い尾。動きは鈍く、慌てる素振りもない。
先頭の下男が、拍子抜けした声を漏らした。
「なんだ、いつもの居候か……」
真澄の肩から力が抜ける気配が、闇の中でも知れた。声には出さぬが、息が長く吐かれる。庭守りの古狸が、木の根元で腹をこすりながらこちらを一瞥し、すぐに興味を失ったふうに藪の奥へ引っ込んだ。以前この庭を縄張りと主張していた、あの臆病な獣である。餌になりそうな虫でも探していたのだろう。
「お騒がせいたしました。空振りでございます。」
屋敷の方から灯りを持って出てきた下男に、真澄はそう告げた。二言で足りるところを、いつもより一言多い。詫びる必要のない相手にまで律儀に頭を下げるのは、この男の性分である。
我はといえば、狸が去った後の藪をしばし見つめていた。石の紋様に変化はない。爪痕も新たなものはない。少なくとも、ここに限っては。
*
下男たちが持ち場へ戻り、屋敷が再び寝静まるまでの間、我は一人、庭の反対側――離れの物置に沿った塀際を歩いた。誰の見張りも置かれておらぬ場所である。石でもなく、井戸でもなく、厨でもない。これまで一度も何かが起きたことのない、いわば屋敷の“外側”に等しい隅であった。
塀際の霜は、他の場所より白く厚く降りていた。冷え込みが強いわけでもないのに、その一角だけがひどく凍えている。前脚を近づけると、毛の下の皮が引き締まる感覚があった。
霜の面に、小さな窪みが二つ、並んでいた。
獣の足跡にしては小さく、人の指の跡にしては形が違う。踏まれてからさほど時が経っていないのは、輪郭の鋭さで知れた。木の香りとも土の香りともつかぬ、乾いた匂いが微かに残っている。あの北東の石で嗅いだものと、遠く似ている。だが同じとは言い切れぬ。似ているというのは、断定とは違う。
見張りの目は皆、あの一角と井戸と厨に注がれている。誰も、この誰も見ていなかった隅を疑いはしない。真澄が戸締まりを二重にしたのは、知っている場所を固めるためであって、知らぬ場所を見つけるためではなかった。
それは責められることではない。人は、脅威の形を知って初めて、そこに備える生き物である。
窪みの上に前脚を置き、霜を崩した。証としては残しておいてよいものだったやもしれぬが、迷った末にそうした。今この場で、これを見せて何になる。真澄はただでさえ、一人で抱え込んでいる。ここへさらに一つ、見えぬ荷を積ませる意味を、我はまだ測りかねていた。
*
翌朝、真白の居室へ顔を出すと、彼女は文机の前で頬杖をついていた。
「昨夜、庭が騒がしかったと聞いたわ。狸ですって?」
答える代わりに、我は膝へ飛び乗った。彼女の指が背を撫でる。眠れなかった夜の名残りは、その手の重さに少しだけ出ていた。
「真澄、大丈夫かしら。近頃、あまり眠れていないみたいだけれど」
廊下を渡る足音が近づき、噂の主が姿を見せた。目の下にわずかな翳りがある。
「案じられるには及ばぬことでございます。夜の見回りは、家令としての務めでござろう。」
推量というより言い訳に近い口ぶりだったが、語尾だけは崩れていない。真白はそれ以上追及せず、ただ茶を勧めた。真澄が一礼して受け取る所作は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っている。
その落ち着きの裏で、彼が石と井戸と厨の三点だけを何度も何度も検めていることを、我は知っている。塀際の霜のことは、彼の耳にまだ入っていない。
*
昼を過ぎ、庭の霜はすでに溶けていた。窪みの跡も、今は土の湿りとして残るのみである。あの場所を今から誰かに教えたところで、証はもう見えぬ。語れば徒に案じさせるだけの話にもなる。
尾の先を軽く振り、我はその考えを一度、内側へしまい込んだ。守るべきものを固めれば固めるほど、守られていない場所が浮かび上がる。真澄はまだそのことに、気づいていない。
――隙は、見張っている場所には生まれぬ。見張っていない場所にこそ、静かに生まれる。




