真澄外伝 第三十話「見せると決めた夜」
隠すことと、守ることは、同じではない。
老人の言葉を聞いてから幾日か、我はその一線をどこに引くべきか、ずっと定めかねていた。爪痕を隠したのは、真澄(かずらがみ の ますみ)の眠りを守るためだった。だがその判断が、今も同じ形で正しいと言い切れるかどうか。猶予が思うより少ないのだとすれば、知らぬまま日々を重ねさせることの方が、よほど危うい。
答えは出ぬまま、それでも夜は来る。
夕餉を終え、真澄が縁側で灯明の油を確かめている頃合いを見計らい、我は彼の袖に鼻先を寄せた。庭へ、という意志を込めたつもりだった。通じるかどうかは賭けである。だが真澄は手を止め、こちらを見下ろした。
「珍しいことでございます。何か、あるのでござろう」
言葉にできぬ意志を、猫の仕草だけでどこまで伝えられるものか。我は身を翻し、縁側から庭へ降り、藪の方角へ数歩進んでは振り返るという、単純極まりない動作を繰り返した。しばしの間があってから、真澄は灯明を手に立ち上がった。
「案内せよと仰るなら、従いましょう」
北東の藪へ向かう道すがら、真澄の足取りに迷いはなかった。この道を歩くのは、彼にとって初めてではないはずだ。屋敷の見回りで幾度も通っているだろう。だが、あの石の前で足を止めるのは、おそらく今宵が初めてになる。
灯明の光が、苔むした表面を淡く照らし出した。
真澄が息を呑む気配がした。彼の視線は、石に刻まれた紋様に釘付けになっている。円の中を走る歪んだ幾筋もの線――そして、外へと伸び始めたあの一本。
「これは……」
声が、いつもより低い。真澄は懐から木片を取り出し、震える指で石の紋様と並べた。灯明の光の下、二つの紋様は驚くほど似通っていた。線の走り方、円の歪み、削られた跡の位置。木片の側でも、外へ伸びる線が同じ角度を保っている。まるで同じ手が、二つに分けて刻んだかのようであった。
「同じ……いや、対をなすもの、というべきでござろう」
彼の声には、抑えようとして抑えきれぬ揺らぎがあった。長く生きてきた家令の顔から、束の間、少年めいた戸惑いが覗く。我はその変化を、これまで幾度も見たことがなかった。
我は前足で、石の脇の土を示した。すでに均してあるが、目を凝らせば爪痕の名残がまだかすかに残っている。真澄がしゃがみ込み、灯明を近づけた。
「これは、獣の足跡には見えませぬ」
断定でも推量でもなく、事実を確かめるような口調だった。彼の指先が、痕の輪郭をなぞる。人でもなく獣でもない何かがここに立っていたという事実が、木片の熱や井戸端の匂いと違い、初めて目に見える形で彼の前に置かれた。
「玄丸は……この痕をご存知だったのでございます」
問いというより、確認だった。我は目を伏せることしかできぬ。言葉があれば、いつからだと答えることもできただろう。だが、今の我に返せるのは、ただ石へ視線を戻すことだけだった。
真澄はしばし黙り込んだ。灯明の炎が、彼の横顔に細かく揺れる影を落とす。
「教えてくださらなかったことを、責めはいたしませぬ。恐らくは、私を案じてのことでござろう」
その声に怒りはなかった。ただ、これまでよりわずかに硬い響きが混じっている。信頼が揺らいだというより、覚悟を決めた者の硬さに近い。
「ただ――これから先は、共に見届ける所存でございます」
灯明を掲げ、真澄は石の紋様をもう一度見つめた。木片を懐へ戻すその手つきに、迷いはもうなかった。
我は尻尾の先をゆるく振った。応じる言葉は持たぬが、それで十分だと願うほかない。
屋敷へ戻る道、真澄は一度も振り返らなかった。ただ、これまでより半歩、背筋が伸びていたように見えた。隠すことをやめたその夜から、何かが確かに動き始めている。それが良い方へ向かうのか、悪い方へ向かうのか、まだ我には測りかねる。
ただ一つだけ、確信できることがあった。もう後戻りはできぬということだ。




