真澄外伝 第二十八話「雨上がりの欠伸」
朝から降り続いた雨が、昼過ぎになってようやく上がった。
軒先の雫が絶え間なく地を叩く音を、我は縁側で聞くともなしに聞いていた。瞼が重い。昨夜は北東の藪でよほど気を張っていたと見える。日が高くなっても眠気は去らず、何度あくびを噛み殺したか分からぬ。
「まあ、玄丸ったら、こんなところで寝ぼけて」
お梅が盥を抱えて通りかかり、笑いながら我の頭を撫でた。老女の手は乾いていて、粉のような感触が毛に残る。厨で粉を挽いていたのだろう。抗う気力もなく、我はされるがまま目を細めた。
蕗が渡り廊下の向こうから声を張る。
「お梅さん、こっちの洗い物、そろそろ終わりそうです」
「はいはい、今行きますよ」
雨上がりの庭は水気を含んで匂いが濃い。土と若葉と、それから微かに、あの乾いた金気を思わせる何かが――と、そこまで考えて我は身を起こした。気のせいだ。今のは、ただの土の匂いに過ぎぬ。昨夜のことが尾を引きすぎている。
そう己に言い聞かせても、鼻先の緊張はすぐには解けなかった。
真澄(かずらがみ の ますみ)が渡ってきたのは、それからほどなくのことだった。手には濡れた布を数枚抱えている。物干しの支度らしい。
「玄丸、今日はよく眠っておられますね」
いつもより幾分か軽い口ぶりであった。昨夜の眠りの浅さを思えば、こちらが皮肉を言いたいくらいだが、猫にできるのはあくびを返すことだけだ。
真澄が縁側に布を広げようとした、その時であった。彼の手が、ふと止まる。
「……この匂い」
真白の声だった。回廊の角から顔を出した彼女は、袖で軽く鼻先を覆っている。
「なんだか、庭の方から変わった匂いがするの。雨のせいかしら」
真澄の背が、わずかに強張る。だがそれも一瞬のことで、すぐに常の口調に戻った。
「雨上がりは、土の匂いが強く立つでござろう」
「そうよね……でも、これ、前にも一度、感じたことがある気がして」
真白は首をかしげ、記憶の糸をたぐるような仕草を見せた。だがすぐに、思い出せぬというふうに肩をすくめる。
「気のせいかしら。あなたも分からない?」
「さて。老いた鼻には、判じかねるでござろう」
彼はそう答えて、布を干す作業に戻った。語尾には迷いも揺らぎもない。だが、その落ち着きこそが、かえって作られたもののように我には映った。
我は前足を舐め、素知らぬ顔で毛づくろいを続けた。今ここで騒いだところで、何がどうなるものでもない。真白の記憶はまだ形を成しておらず、真澄自身も昨夜の出来事は知らぬままだ。北東の爪痕を見せぬと決めたのは、他ならぬ我自身であった。
蕗が洗濯物を抱えて戻ってきて、彼女に何やら他愛のない話を振る。すぐに話題は移ろい、庭の匂いのことなど、誰の口の端にも上らなくなった。日常とは、こうも呆気なく怪異の気配を覆い隠すものらしい。
夕刻近く、真澄が厨へ布を返しに行った後、我はひとり庭先に残った。雨に洗われた石畳の上を歩くと、爪先が濡れて冷たい。北東の藪の方角を見やっても、今はただ木々が雨滴を落としているだけの、何の変哲もない眺めであった。
昨夜のことを知る者は、この屋敷でまだ我一人だけだ。
それが正しい判断であるのかどうか、我自身にもまだ分からぬ。ただ、真白が「前にも感じた」と口にした事実だけは、覚えておかねばならぬ。忘れられた記憶というものは、思いのほか、静かに戻ってくるものらしい。




