真澄外伝 第二十七話「北東の爪痕」
廊下を渡る我の足音だけが、屋敷の静けさを裂いていた。
真澄(かずらがみ の ますみ)の部屋の障子は閉ざされている。中から漏れる寝息は浅く、幾度も途切れては続く。木片の熱に気づいてから、まだ幾夜も明けてはいない。それでも彼の寝顔には、落ち着きより先に、拭いきれぬ緊張の方が透けて見えた。案じたところで、猫の身に慰めの言葉はない。ならばこちらで、確かめられることを確かめておくのが道理というものだ。
我は縁の下から庭へ抜け、北東の藪を目指した。
紋様の石はあの晩と変わらぬ場所にあった。苔むした表面に、削られた一本の線が黒々と残っている。月明かりの下でそれを見つめていると、鼻先の空気がわずかに重みを増した。
乾いた金気の匂いだ。以前より濃い。
我は身を低くした。猫の勘というものは理屈より先に働く。腹の底に、明確な言葉にならぬ警告が満ちていく。
藪の奥、深い闇の一点に、金色の光が二つ、浮かんだ。
瞬きひとつせず、こちらを見ている。獣の目のようでいて、獣ではない。人の目のようでいて、人でもない。ただ、その視線には、見定めるような重みがあった。値踏みをされている、と表すのが最も近いだろう。
我は動かなかった。動けば、それだけで何かの答えになってしまう気がした。
冷え込みが増した。吐く息が白く見えるほどではないが、毛の根が粟立つのを感じる。木々のざわめきは絶えていないのに、なぜかそれが遠く、薄い膜の向こうから響くもののように感じられた。
金色の光が、わずかに揺れる。
近づいてくるのではない。むしろ、こちらを見定め終えたとでもいうように、静かに沈んでいく。闇に溶けていく速さは、老人の影走りとはまるで違う。滑るような、あるいは初めから闇そのものであったかのような消え方だった。
我はしばし動けなかった。全身の毛が逆立ったまま、しばらくその場に伏せていた。
やがて意を決し、藪の奥へと踏み込む。光の消えた場所には、何も残っていない――そう思われたが、石の脇の湿った土に、目を凝らすとひとつだけ痕があった。
四本の爪の跡だ。人の指の幅よりも広く、深い。獣の足跡とも違う。何かが、確かにそこに立っていたという証であった。
真澄がこれを知れば、どう受け止めるだろうか。ただでさえ浅い今宵の眠りを、これ以上乱すようなものを見せるわけにはいかぬ。少なくとも今は。
我は爪痕の周囲の土を、前足で軽く均した。跡形もなく消すことはできぬが、月明かりに照らされて目立つほどでもなくなる。これでよい。今はまだ。
屋敷へ戻る道すがら、匂いはすでに薄れかけていた。だが完全に消えてはいない。むしろ、屋敷の柱や庭木のあちこちに、うっすらと染みついているようにも思われた。これまで幾度もここにいたのではないか――その推測が、初めて確かな輪郭を帯びる。
あれは、今宵初めてここへ来たわけではない。おそらくは、ずっと前から。
真澄の部屋の前を通り過ぎる時、障子越しの寝息はいくらか落ち着いていた。悪夢からは離れているらしい。それだけが、今宵の救いだった。
縁側に腰を落ち着け、我は爪痕の形を思い返した。人でもなく、獣でもなく、ただ確かにそこに在った何か。老人の言う「渡さねばな」という一言が、今になって別の意味を帯びて響く。渡す相手を探しているのか、あるいは――取り戻しに来ているのか。
答えはまだ、どちらとも定まらぬ。判断するには、材料があまりに少なすぎる。
月が雲に隠れ、庭が一段暗くなった。我は目を細め、その暗さの中に、先刻の金色を探した。むろん、そこにはもう何もない。ただの闇があるだけだ。
それでも、しばらくは瞼を閉じる気になれなかった。




