↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【本編完結】平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
番外編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
208/214

真澄外伝 第二十六話「懐の疼き」

回廊を行く足が、不意に止まった。


先を歩いていた葛上真澄(かずらがみの ますみ)の背が、板張りの上でぴたりと固まっている。我はその数歩後ろ、欄干の隙間から夜気を吸いながら、彼の変化を見咎めた。


夕餉の片づけを終え、真白(ましろ)の寝所へ火の始末を確かめに行く。ただそれだけの、幾度も繰り返してきた道のりであったはずだ。それが今、まるで見えぬ壁にぶつかったかのように断ち切られている。


真澄の右手が、懐へと動いた。


布越しに、あの木片を探る指の動きには覚えがある。だが今宵のそれは、これまでとは違う。指先が震え、いや――止まらぬ。何度も同じ位置を押さえ、確かめ、また押さえる。


我は足音を殺し、彼の傍らへ寄った。猫の身とは、こういう時に都合がよい。誰の目にも留まらず、誰の警戒も呼ばぬ。


木片が熱を帯びている。触れずとも分かる。真澄の指先の強張りが、そのまま答えになっていた。井戸端で、北東の藪で、厨で――これまで我だけが気づき、彼自身は見過ごしてきたはずの震えである。今宵はどうやら、違うらしい。


「……これは」


声にならぬ呟きが、真澄の唇からわずかに漏れた。廊下の灯が、彼の横顔に長い影を落とす。眉根が寄り、視線が宙をさまよう。何かを思い出そうとして、思い出せずにいる者の顔だ。


風が止んでいることに、我はこの時初めて気がついた。庭の梢は先刻まで確かに揺れていたはずだが、今は一枚の葉も動かぬ。虫の声も、いつの間にか途絶えている。夜という夜が、息を潜めているかのようであった。


真澄が振り返り、我の姿を認めた。猫が傍にいることを咎めもせず、ただ小さく息を吐く。


「玄丸(くろまろ)。この匂い……どこかで、覚えがございます」


彼は懐から手を出さぬまま、そう告げた。ただ確かめるような口ぶりであった。乾いた、金気を帯びた匂い。それが今、この回廊のどこかに紛れているという。人の鼻ではとても捉えられぬはずのものを、真澄はすでに嗅ぎ取っている。


我の中で、ある記憶が疼いた。同じ言葉を、以前にも耳にしている。つい先頃、真白が井戸端にてそれを口にしたことがあった。あの時は誰も本気にはしなかった。真白自身、すぐに話を打ち切っていたはずだ。


だが今、真澄までもが同じ匂いを覚えていると言う。


主が違えば、記憶の在処も違う。それが同じ一点へ収斂するというのなら、そこには理がある。偶然という言葉で片づけるには、あまりに筋が通りすぎていた。


真澄が懐から木片を取り出した。月明かりの下、円の中を走る歪んだ線が浮かぶ。以前より一本、外へと伸びていたはずのその線を、彼はしばし見つめる。だが気づいた様子はない。紋様の変化にまでは、まだ思い至っていないのだろう。


「気のせいで、ござろう」


そう結んで、彼は木片を懐へ戻した。語尾に迷いが滲んでいる。断定でもなければ、確信を持った見立てでもない。己の感覚を、あえて棚上げにしようとする響きであった。


我は答える術を持たぬ。ただ尻尾の先を一度だけ揺らし、彼の足元をすり抜けて先を歩いた。真澄が小さく笑う気配がした。猫に急かされるとは、と己を戒めるような、そんな笑いであった。


歩き出せば、風がまた戻ってくる。梢が揺れ、虫の声が戻る。何事もなかったかのように、夜は元の顔を取り戻した。


だが我は知っている。何事もない夜など、もはやこの屋敷にはない。木片は真澄の懐で疼き、真白の記憶の底には正体の知れぬ匂いが眠り、北東の藪には削られた紋様の石が転がっている。三つの糸は、まだ誰の手にも束ねられてはいない。それでも――確かに、一点へ向かって伸び始めている。


道しるべというものは、示す先が近づくほどに、持つ者自身を急かすものであるのやもしれぬ。彼の指先の震えを思い出しながら、我はそう考えた。それが正しいかどうか、確かめる術はまだない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。