真澄外伝 第二十六話「懐の疼き」
回廊を行く足が、不意に止まった。
先を歩いていた葛上真澄の背が、板張りの上でぴたりと固まっている。我はその数歩後ろ、欄干の隙間から夜気を吸いながら、彼の変化を見咎めた。
夕餉の片づけを終え、真白の寝所へ火の始末を確かめに行く。ただそれだけの、幾度も繰り返してきた道のりであったはずだ。それが今、まるで見えぬ壁にぶつかったかのように断ち切られている。
真澄の右手が、懐へと動いた。
布越しに、あの木片を探る指の動きには覚えがある。だが今宵のそれは、これまでとは違う。指先が震え、いや――止まらぬ。何度も同じ位置を押さえ、確かめ、また押さえる。
我は足音を殺し、彼の傍らへ寄った。猫の身とは、こういう時に都合がよい。誰の目にも留まらず、誰の警戒も呼ばぬ。
木片が熱を帯びている。触れずとも分かる。真澄の指先の強張りが、そのまま答えになっていた。井戸端で、北東の藪で、厨で――これまで我だけが気づき、彼自身は見過ごしてきたはずの震えである。今宵はどうやら、違うらしい。
「……これは」
声にならぬ呟きが、真澄の唇からわずかに漏れた。廊下の灯が、彼の横顔に長い影を落とす。眉根が寄り、視線が宙をさまよう。何かを思い出そうとして、思い出せずにいる者の顔だ。
風が止んでいることに、我はこの時初めて気がついた。庭の梢は先刻まで確かに揺れていたはずだが、今は一枚の葉も動かぬ。虫の声も、いつの間にか途絶えている。夜という夜が、息を潜めているかのようであった。
真澄が振り返り、我の姿を認めた。猫が傍にいることを咎めもせず、ただ小さく息を吐く。
「玄丸。この匂い……どこかで、覚えがございます」
彼は懐から手を出さぬまま、そう告げた。ただ確かめるような口ぶりであった。乾いた、金気を帯びた匂い。それが今、この回廊のどこかに紛れているという。人の鼻ではとても捉えられぬはずのものを、真澄はすでに嗅ぎ取っている。
我の中で、ある記憶が疼いた。同じ言葉を、以前にも耳にしている。つい先頃、真白が井戸端にてそれを口にしたことがあった。あの時は誰も本気にはしなかった。真白自身、すぐに話を打ち切っていたはずだ。
だが今、真澄までもが同じ匂いを覚えていると言う。
主が違えば、記憶の在処も違う。それが同じ一点へ収斂するというのなら、そこには理がある。偶然という言葉で片づけるには、あまりに筋が通りすぎていた。
真澄が懐から木片を取り出した。月明かりの下、円の中を走る歪んだ線が浮かぶ。以前より一本、外へと伸びていたはずのその線を、彼はしばし見つめる。だが気づいた様子はない。紋様の変化にまでは、まだ思い至っていないのだろう。
「気のせいで、ござろう」
そう結んで、彼は木片を懐へ戻した。語尾に迷いが滲んでいる。断定でもなければ、確信を持った見立てでもない。己の感覚を、あえて棚上げにしようとする響きであった。
我は答える術を持たぬ。ただ尻尾の先を一度だけ揺らし、彼の足元をすり抜けて先を歩いた。真澄が小さく笑う気配がした。猫に急かされるとは、と己を戒めるような、そんな笑いであった。
歩き出せば、風がまた戻ってくる。梢が揺れ、虫の声が戻る。何事もなかったかのように、夜は元の顔を取り戻した。
だが我は知っている。何事もない夜など、もはやこの屋敷にはない。木片は真澄の懐で疼き、真白の記憶の底には正体の知れぬ匂いが眠り、北東の藪には削られた紋様の石が転がっている。三つの糸は、まだ誰の手にも束ねられてはいない。それでも――確かに、一点へ向かって伸び始めている。
道しるべというものは、示す先が近づくほどに、持つ者自身を急かすものであるのやもしれぬ。彼の指先の震えを思い出しながら、我はそう考えた。それが正しいかどうか、確かめる術はまだない。




