真澄外伝 第二十五話「三つの熱」
屋根を打つ雨音が、夜更けの屋敷を静かに満たしていた。
激しい雨ではない。糸のように細く、途切れることなく降り続く、初夏の長雨である。軒先から滴り落ちる水音が、一定の間合いで石畳を叩き、我の耳の奥にいつまでも残っていた。
真澄はすでに寝入っている。木片は、今宵はまだ、何の反応も見せてはいない。だが我は、眠りに落ちる気にはなれず、雨音を聞きながら、これまでのことを一つ一つ辿り直していた。
古井戸のそば。
北東の、紋様の刻まれた石。
そして、厨の騒がしさの中。
木片が熱を帯びたのは、この三度である。場所だけを見れば、何の脈絡もない。井戸は屋敷の裏手、石は築地塀のさらに向こう、厨は真逆の方角にある。線を引いてみたところで、三点は綺麗な図形を結ばぬ。
ならば、場所そのものに意味はないのやもしれぬ。
我は雨音に耳を澄ませながら、もう一度、あの瞬間を一つずつ思い返した。井戸のそばで嗅いだ、あの乾いた金気の匂い。北東の藪で見た、削り取られた紋様の石。そして厨で――
思い出そうとして、我は動きを止めた。
厨のあの日、匂いを気にする余裕など、誰にもなかった。お梅と蕗の騒がしさに紛れ、真白の笑い声が響き、我自身も米粒に気を取られていた。だが、記憶を丁寧に辿り直せば――確かに、あった。
土間の隅、こぼれた米の陰から、ほんの微かに、あの匂いが漂っていた。
その時は、竈の煙や焦げた粥の匂いに紛れて、気にも留めなかった。だが今、雨音の中で思い返してみれば、あれは、井戸のそばで嗅いだものと、よく似た乾いた気配であった。
つまり、木片が熱を帯びた三度のいずれにも、あの匂いは、薄くではあるが、確かに漂っていたことになる。
場所ではない。
木片は、あの匂いの気配そのものに応えているのだ。
そして、あの匂いが漂っていたということは――あの影めいた者が、我や真澄の与り知らぬところで、この屋敷の周囲を行き来していた、ということになろう。そう考えるのが自然だ。だが、それを確かめる術は、我にもない。
姿を見せず、声もかけず、ただ気配の欠片だけを残して。
我は雨の音を聞きながら、背筋が僅かに粟立つのを感じた。異世界にて数多の戦場を渡り歩いた我が、これほどの静けさの中で、これほどの不穏さを覚えたことは、そう多くはない。
真澄の眠る部屋の方角へ、我は視線を向けた。障子越しに、規則正しい寝息だけが聞こえてくる。彼は今夜も、何も知らぬまま眠っている。
だが、彼の周りには、確かに何かが漂い続けている。彼が気づかぬところで、彼の日常のすぐ傍らを。
雨は、まだ止む気配を見せない。
軒先の水音が、一つ、また一つと、闇の中に落ちていく。その音を数えながら、我は思う。
あの匂いの主が、これまで何度、この屋敷の近くを通り過ぎていったのか――我にも、まだ分からぬ。ただ、少なくとも三度は、ここに何かがあった。
ならば、何故あの匂いは、この屋敷の周りにだけ残されているのか。
それは、偶然にしては、あまりに律儀すぎる。




