第二十話「天狗の忘れ物」
朝の光が庭を照らす頃、妙なものが目に留まった。
白砂の上、楓の木の下に、見慣れぬ履物が転がっている。一本歯の高下駄だ。それも、普通の品ではない。木目が美しく、鼻緒は赤い絹糸で編まれている。
我は玄丸。昨日は真白の膝で眠りながら、穏やかな雨音に包まれた一日を過ごした黒猫だ。
その下駄に近づいて、匂いを嗅ぐ。
木の香りと、風の匂い。そして、高い場所の空気を感じさせる、清々しい気配。
天狗のものだ。
間違いない。この下駄は、天狗が落としていったに違いない。
「玄丸、何を見ているの?」
真白の声がする。振り返ると、真白が縁側から庭を見ていた。
「あら、これは」
真白が近づいてくる。
「下駄?どうしてこんなところに」
真白が不思議そうに首を傾げる。
我は「にゃあ」と鳴いて、真白に伝えようとした。
これは天狗の履物だ、と。
「まあ、立派な下駄ね」
真白がしゃがみ込んで、下駄を手に取る。
「誰かが落としていったのかしら」
真白が周囲を見回す。だが、人の気配はない。
「困ったわね。持ち主が分からないと、返せないわ」
真白が悩む顔をする。
その時、空から声が聞こえた。
「それは拙者のものでござる!」
若々しい声だ。真白と我が同時に空を見上げる。
そこには、若い天狗が浮かんでいた。
赤い顔に、長い鼻。背中には小さな翼があり、手には団扇を持っている。年は二十歳前後に見える。
「おお、見つけた!拙者の下駄!」
天狗が嬉しそうに叫ぶ。
そして、ふわりと庭に降り立った。
「申し訳ござらぬ。お庭を汚してしまって」
天狗が真白に頭を下げる。
「昨夜、この辺りを飛んでおりましたら、下駄が片方外れてしまいまして」
天狗が恥ずかしそうに説明する。
「暗くて探せず、朝になってから探しに参った次第でござる」
「まあ、そうだったのですか」
真白が微笑む。
「では、これをどうぞ」
真白が下駄を天狗に渡す。
「かたじけない!」
天狗が下駄を受け取り、嬉しそうに眺める。
「これは拙者の大切な下駄でして。師匠から頂いたものなのでござる」
天狗が下駄を撫でる。
「失くしたらどうしようかと、一晩中心配しておりました」
天狗の顔がほっとした表情になる。
我は、その天狗を観察していた。
若い。経験も浅そうだ。だが、悪意は感じない。
ただの、慌て者の天狗のようだ。
「ところで」
真白が天狗に尋ねる。
「あなた様は、天狗様でいらっしゃいますか」
「はい、左様にござる」
天狗が胸を張る。
「拙者は烏天狗の風丸と申す。修行中の身でござるが」
風丸、か。なるほど、修行中というのも納得だ。
「まあ、天狗様にお会いできるなんて」
真白が目を輝かせる。
「光栄ですわ」
「いやいや、拙者こそ」
風丸が照れたように頭を掻く。
「姫君にこのようにお会いできて、光栄の至りでござる」
風丸が我に気づいた。
「おお、これは立派な黒猫殿」
風丸がしゃがみ込んで、我を見つめる。
「毛並みも美しく、目も賢そうでござるな」
風丸が我の頭を撫でようとする。
我は、避けなかった。
この天狗は、信用できそうだ。
「ふむ、人懐っこい猫殿でござるな」
風丸が我の頭を撫でる。
「猫殿、名は?」
「玄丸と申します」
真白が答える。
「玄丸殿か。良い名でござるな」
風丸が我を見る。
「玄丸殿、拙者と友になってくださらぬか」
風丸の目が、真剣だ。
我は「にゃあ」と鳴いた。
構わない。お前が望むなら。
「おお、承諾してくださったか!」
風丸が喜ぶ。
「では、これから拙者は玄丸殿の友でござる!」
風丸が団扇を振る。すると、一陣の風が吹いた。
心地よい風だ。清々しく、爽やかな香りがする。
「これは拙者の挨拶でござる」
風丸が胸を張る。
「友になった証として、拙者の風を送らせていただいた」
風丸が嬉しそうに笑う。
我は、その風を感じていた。
自由な風だ。束縛されない、どこまでも広がっていく風。
「ところで、風丸様」
真白が尋ねる。
「天狗様は、空を自由に飛べるのですか」
「はい、左様にござる」
風丸が頷く。
「拙者たち天狗は、空を我が家とする者たち。どこへでも飛んでいけるのでござる」
風丸の声が、誇らしげだ。
「それは、素敵ですわね」
真白が羨ましそうに言う。
「拙者も、まだまだ修行中でござるが」
風丸が空を見上げる。
「いつか、師匠のように、雲の上まで飛べるようになりたいと思っておる」
風丸の目が、夢を追う者の輝きを宿している。
我は、風丸を見ていた。
空を飛ぶ、か。
自由に、どこへでも。
羨ましい、と思った。
我には、翼がない。
猫の体では、地を這うことしかできない。
だが、かつて異世界にいた頃、我は空間を超越する魔法を使えた。
今は、その力も封じられている。
地に縛られた存在。
それが、今の我だ。
「玄丸殿」
風丸が我に声をかける。
「玄丸殿も、空を飛んでみたいとお思いでござるか」
風丸の問いに、我は頷いた。
「ふむ、やはり」
風丸が微笑む。
「では、いつか拙者が強くなったら、玄丸殿を背に乗せて、空を飛んで差し上げよう」
風丸が約束する。
「今の拙者では、まだその力がないでござるが」
風丸が拳を握る。
「いつか必ず、玄丸殿に空の景色を見せて差し上げる」
風丸の声が、真剣だ。
我は「にゃあ」と鳴いた。
その日を、楽しみにしている。
「では、拙者はこれにて」
風丸が立ち上がる。
「姫君、玄丸殿、本日はありがとうござった」
風丸が深々と頭を下げる。
「また、お会いしましょう」
風丸が団扇を振る。
すると、風が巻き起こり、風丸の体がふわりと浮き上がった。
「さらばでござる!」
風丸が空へと舞い上がる。
その姿は、まるで鳥のように軽やかだ。
風に乗り、雲へと向かっていく。
やがて、風丸の姿は小さくなり、見えなくなった。
我は、空を見上げ続けていた。
*
風丸が去った後、真白が我を抱き上げた。
「玄丸、天狗様と友達になれて良かったわね」
真白の声が、優しい。
「風丸様は、良い方ね」
真白が微笑む。
「きっと、また会えるわ」
真白の言葉に、我は頷いた。
ああ、また会える。
そして、いつか。
風丸が約束を果たす日が来る。
その時、我は空を飛ぶのだ。
風丸の背に乗って。
「玄丸、あなたも空を飛びたいの?」
真白が我を見つめる。
我は「にゃあ」と鳴いた。
飛びたい、というより。
自由になりたい、のかもしれない。
束縛されず、どこへでも行ける。
そんな自由が、欲しいのかもしれない。
だが、我には真白がいる。
真白の傍を離れることは、できない。
ならば、我が求める自由とは何か。
真白と共に、どこへでも行ける自由。
真白を守りながら、世界を見る自由。
それが、我が望む自由なのかもしれない。
「ふふ、玄丸。あなた、また難しい顔をしているわ」
真白が我の額に、自分の額を重ねる。
「大丈夫よ。あなたはもう、十分自由だわ」
真白の声が、囁く。
「あなたは、誰にも縛られていない。私の傍にいるのも、あなた自身が選んだことでしょう?」
真白の言葉に、我ははっとした。
そうだ。
我は、真白の傍にいることを、自分で選んだ。
誰かに強制されたわけではない。
真白と共にいることが、我の意志だ。
ならば、我は既に自由なのだ。
真白と共にいる自由。
それが、我にとっての自由なのだ。
「さあ、戻りましょう」
真白が屋敷へと向かう。
我は真白の腕の中で、もう一度空を見上げた。
風丸は、空の向こうへ消えていった。
いつか、我も空を飛ぶ日が来るだろう。
だが、それは一人ではない。
真白と共に、空を見る日が来る。
そう信じて、我は真白の温もりに身を委ねた。
【妖怪図鑑】
■烏天狗・風丸
【分類】天空妖怪
【危険度】★★☆☆☆(中)※修行中のため低め
【レア度】★★★★☆(珍しい)
【出現場所】山岳地帯、高い木の上、空中
【特徴】
烏のような黒い翼を持つ天狗の一種。本来の大天狗ほどの力はないが、それでも空を自在に飛び、風を操る能力を持つ。今回登場した風丸は修行中の若い天狗で、まだ未熟な面もあるが、純粋で誠実な性格をしている。
天狗は山の守り神とされ、武術や兵法に長けている。烏天狗は特に飛行能力に優れ、団扇で風を起こして空を駆ける。師匠から弟子へと技術が受け継がれる師弟制度があり、風丸もその修行の途中である。
人間に対しては基本的に中立だが、礼儀正しい者には好意的で、無礼な者には厳しい。約束を重んじ、恩義を忘れない義理堅さを持つ。
【得意技】
・風操術:団扇を振って風を起こし、自在に操る
・高速飛行:空中を鳥よりも速く飛ぶことができる
・旋風撃:団扇で強烈な突風を放つ攻撃技
・風読み:風の流れから天候や方角を読み取る
【弱点】
・翼を傷つけられると飛行能力が低下する
・狭い室内では能力を十分に発揮できない
・若い天狗は経験不足で慌てやすい
・過信して高く飛びすぎると下駄を落とす(風丸の場合)
【生態】
主に山岳地帯に住み、岩窟や大木の上に住処を構える。昼夜を問わず活動するが、特に朝夕の風が穏やかな時間帯に飛行訓練をすることが多い。
食事は木の実や山菜が中心だが、人間の食べ物も好む。特に酒を好む天狗が多いとされる。
師匠の下で厳しい修行を積み、武術、飛行術、風の操り方などを学ぶ。一人前になるまでには数十年かかることもある。
風丸は下駄を大切にしており、それは師匠から授かった品。天狗にとって下駄は単なる履物ではなく、飛行の際のバランスを取る重要な道具である。
【玄丸の評価】
「烏天狗、風丸。若く、未熟だが、誠実な性格だ。約束を守る義理堅さも感じられる。空を飛ぶ姿は、まさに自由そのもの。羨ましくもある。我もかつて、空間を超越する力を持っていた。だが今は、地に縛られている。風丸が約束を果たす日、我は空からこの世界を見ることができるだろう。それまでに、我も強くならねばならない。真白を守り、共に空を見る。それが、我の新たな目標だ」
【遭遇時の対処法】
天狗に出会ったら、まず礼儀正しく接することが重要。無礼な態度を取ると、風で吹き飛ばされる可能性がある。天狗の持ち物(特に下駄や団扇)を見つけたら、大切に保管して返すこと。そうすれば友好関係を築ける。
天狗は約束を重んじるため、一度友となれば頼りになる存在。困った時には助けてくれることもある。
【豆知識】
天狗には様々な種類があり、大天狗、烏天狗、木の葉天狗などが知られている。大天狗は長い鼻を持ち、最も位が高い。烏天狗は大天狗に次ぐ存在で、特に飛行能力に優れる。
天狗の団扇は「天狗の羽団扇」と呼ばれ、風を起こすだけでなく、相手を吹き飛ばしたり、火を消したりする力がある。また、鼻を伸ばしたり縮めたりする力もあるとされる。
風丸は第129話「天狗の助言」で再登場し、成長した姿を見せる予定である。その時には、玄丸を背に乗せて空を飛ぶ約束を果たすことになる。




