第十九話「雨の日の物語」
しとしとと降り続ける秋雨が、屋敷の屋根を濡らしていた。
我が名は玄丸。昨日、実俊と共に暴走する式神を鎮めた黒猫である。
灰色の空から絶え間なく落ちる雨粒が、庭の白砂に小さな波紋を作る。木々の葉が雨に打たれ、しっとりと濡れて色を深めている。こういう日は、外に出る気にもなれない。
真白は母の部屋で看病を終え、自室へと戻ってきた。髪が僅かに湿っているのは、廊下を歩く間に雨の気配を感じたからだろう。
「玄丸、こちらにいらっしゃい」
真白が縁側に座り、我に声をかける。
我は真白の元へと歩いていった。真白が膝を叩いて、誘う。
我は真白の膝に飛び乗った。真白の手が、我の背を優しく撫でる。
「今日は一日、雨ね」
真白が空を見上げる。
「こんな日は、じっとしているしかないわ」
真白の声が、静かに響く。雨音に溶け込むような、穏やかな調子だ。
我は真白の膝の上で、丸くなった。雨の音が心地よい。
「玄丸」
真白が語りかけてくる。
「お話を聞かせましょうか」
真白の指が、我の耳を軽く撫でる。
「昔々のお話よ」
真白の声が、物語を紡ぎ始める。
*
「昔々、ある山里に、一人の娘が住んでおりました」
真白の声が、静かに流れる。
「娘は、とても美しく、心も優しい子でした。けれど、村の人々からは恐れられていたのです」
真白の手が、我の頭を撫でる。
「なぜなら、娘には不思議な力があったからです」
真白の声が、続く。
「娘が歌を口ずさむと、花が咲き、鳥が集まり、風が舞いました。それは、言霊の力でした」
言霊、か。
我は目を閉じたまま、真白の話に耳を傾ける。
「村の人々は、その力を恐れました。妖術だと、魔性だと、噂を立てました」
真白の声に、悲しみが滲む。
「娘は、自分の力を封じようとしました。歌を歌わず、言葉少なに生きました」
真白の手が、我の背を撫で続ける。
「けれど、ある日のこと」
真白の声が、少し明るくなる。
「村に疫病が流行りました。人々が次々と倒れていきました」
真白が息を吸う。
「娘は、迷いました。自分の力を使えば、村の人々を救えるかもしれない。けれど、また恐れられるかもしれない」
真白の指が、我の頬を優しく撫でる。
「娘は、決断しました」
真白の声が、強くなる。
「村の井戸の前で、娘は歌いました。清らかな水を呼ぶ歌を。癒やしをもたらす歌を」
真白の声が、まるで本当に歌っているかのように、美しく響く。
「すると、井戸の水が光り始めました。そして、その水を飲んだ人々は、次々と病から回復していきました」
真白が微笑む気配がする。
「村の人々は、驚きました。そして、娘に感謝しました」
真白の声が、温かい。
「『あなたの力は、呪いではなく、祝福だったのですね』と、村人たちは娘に言いました」
真白の手が、我の頭を包み込む。
「娘は、泣きました。嬉し涙を流しました」
真白の声が、優しく締めくくる。
「それからというもの、娘は村で大切にされ、幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
真白の語りが、終わる。
雨の音だけが、静かに響いている。
我は、目を閉じたまま、考えていた。
言霊の力。恐れられた娘。
それは、真白自身のことなのだろうか。
真白も、言霊の力を持っている。その力を、どう思っているのだろうか。
「玄丸」
真白が囁く。
「あなたは、どう思う?」
真白の問いかけに、我は「にゃあ」と小さく鳴いた。
力は、使い方次第だ。
恐れるものではなく、活かすべきものだ。
真白の力も、きっとそうだ。
「ふふ、そうね」
真白が微笑む。
「あなたも、きっとそう言ってくれると思っていたわ」
真白の手が、我を優しく抱きしめる。
*
雨は、まだ降り続いている。
真白が、また別の昔話を語り始めた。
「昔々、ある森に、一匹の狐が住んでおりました」
真白の声が、再び物語を紡ぐ。
我は真白の膝の上で、その声に身を委ねる。
真白の声は、不思議な響きを持っている。
心が落ち着く。温かくなる。
まるで、子守唄のようだ。
我は、かつてこんな風に誰かの話を聞いたことがあっただろうか。
異世界にいた頃、誰かが我に物語を語ってくれたことは、なかった。
我は一人で、文献を読み、理を学んでいた。
誰かと、こうして穏やかに時を過ごすことは、なかった。
だが、今は違う。
真白がいる。
真白の声が、我を包んでいる。
「そして、狐は人間の娘と友達になりました」
真白の声が、優しく響く。
我は、だんだんと眠くなってきた。
真白の膝の温もり。真白の手の優しさ。真白の声の心地よさ。
全てが、我を眠りへと誘う。
「二人は、毎日一緒に遊びました」
真白の声が、遠くなっていく。
我の意識が、ゆっくりと沈んでいく。
「けれど、ある日」
真白の声が、子守唄になる。
我は、ついに目を閉じた。
そして、眠りに落ちた。
*
どれくらい眠っていただろうか。
我が目を覚ますと、まだ雨は降っていた。
だが、真白の声はもう聞こえない。
我は顔を上げた。
真白は、静かに我を見つめていた。
「おはよう、玄丸」
真白が微笑む。
「よく眠っていたわね」
真白の手が、我の頭を撫でる。
我は「にゃあ」と鳴いた。
すまない、真白。お前の話を聞いているつもりだったのだが。
「いいのよ」
真白が優しく言う。
「あなたが、安心して眠ってくれる。それだけで、私は嬉しいの」
真白が我を抱き上げる。
「あなたは、いつも私を守ってくれているものね」
真白の腕が、我を包み込む。
「だから、こういう時くらい、ゆっくり休んでちょうだい」
真白の声が、温かい。
我は、真白の腕の中で目を細めた。
真白の優しさが、心に染み入る。
真白は、我を大切に思ってくれている。
我も、真白を大切に思っている。
この関係は、何と呼べばいいのだろうか。
家族、か。
友、か。
それとも。
我には、まだ分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
真白と一緒にいると、心が安らぐ。
それが、全てだ。
「玄丸」
真白が窓の外を見る。
「雨、少し弱くなってきたわね」
真白の声が、穏やかだ。
「もうすぐ、止むかもしれないわ」
真白が我を見つめる。
「そうしたら、また庭を散歩しましょう」
真白が微笑む。
我は「にゃあ」と鳴いた。
ああ、そうしよう。
真白と、一緒に。
*
夕方になり、雨は止んだ。
空には、まだ雲が残っているが、僅かに西の空が明るくなっている。
真白と我は、庭に出た。
雨に濡れた庭は、いつもとは違う風情がある。
白砂がしっとりと湿り、木々の葉が雨粒を纏って光っている。
空気も澄んでいて、深く息を吸うと、土と草の匂いがする。
「綺麗ね」
真白が呟く。
「雨上がりの庭も、素敵だわ」
真白が庭を歩く。我も、真白の後を追う。
真白が、楓の木の下で立ち止まった。
「玄丸、見て」
真白が木の枝を指差す。
枝に、一滴の雨粒が残っている。その雫が、夕日を受けて、宝石のように輝いている。
「まるで、涙みたいね」
真白が呟く。
「でも、悲しい涙じゃない。喜びの涙のような」
真白が我を見る。
「ねえ、玄丸。あなたは、泣いたことがある?」
真白の問いに、我は首を傾げた。
泣く、か。
異世界にいた頃、我は泣いたことがあっただろうか。
思い出せない。
感情を表に出すことなど、なかった。
だが、今は。
今も、我は泣かない。
猫の姿では、涙を流すことができるのだろうか。
分からない。
だが、もし泣くとしたら。
それは、きっと真白のためだろう。
真白が悲しむ時、我も悲しい。
真白が喜ぶ時、我も嬉しい。
それが、我の今の感情だ。
「ふふ、変なことを聞いてごめんなさい」
真白が微笑む。
「さあ、そろそろ戻りましょう。母上の様子も見なければ」
真白が屋敷へと向かう。
我は、もう一度、その雫を見上げた。
涙、か。
いつか、我も涙を流す日が来るのだろうか。
それは、悲しみの涙か。
それとも、喜びの涙か。
我には、分からない。
だが、もしその日が来たら。
真白の傍で、流したいと思う。
我は、真白の後を追って、屋敷へと戻った。
雨上がりの空が、少しずつ明るさを取り戻していく。
今日は、穏やかな一日だった。
雨の音を聞き、真白の話を聞き、眠った。
それだけの日。
だが、それが何より幸せな時間だった。
真白と過ごす、この静かな時間。
それが、我にとって、かけがえのないものになっていく。




