第十八話「迷い子の式神」
その日は、朝から雲が厚く垂れ込めていた。雨が降り出しそうな、重苦しい空気が屋敷を包んでいる。
我が名は玄丸。実俊の悩みを聞いてから、少し複雑な気持ちを抱えている黒猫である。
真白は母の部屋で看病をしている。母の容態は相変わらず芳しくないが、真白は毎日、母の傍で過ごしている。
我は庭で、一人で座っていた。雨粒が、ぽつりぽつりと落ち始める。
その時、屋敷の門から、実俊が駆け込んできた。
「真白殿!真白殿はいらっしゃいますか!」
実俊の声が、切羽詰まっている。
我は立ち上がり、実俊の方を見た。
実俊の顔は青ざめ、息を切らしている。何かあったのか。
真澄が実俊の元へと駆け寄る。
「真名井殿、どうなさいました」
「真澄殿、大変なのです」
実俊が息を整える。
「都の東の方で、式神が暴走しております」
式神の暴走、だと。
「主を失った式神が、人々を襲っているのです」
実俊の言葉に、真澄の表情が険しくなる。
「それは、ゆゆしき事態ですな」
「ええ。陰陽寮の者たちも出動しましたが、式神の力が強く、手こずっております」
実俊が拳を握りしめる。
「私も加勢に行かねばなりませんが、その前に、真白殿に」
実俊がそこまで言いかけた時、真白が母の部屋から出てきた。
「実俊様、どうなさったのです」
真白が心配そうに実俊を見る。
「真白殿、お怪我はありませんか」
実俊が真白に駆け寄る。
「ええ、私は大丈夫ですが」
「良かった」
実俊がほっとする。
「式神が暴走しているとのことです。この屋敷も、いつ襲われるか分かりません」
実俊が真白を見つめる。
「ですから、真白殿には、屋敷の中にいていただきたい」
「分かりました」
真白が頷く。
「でも、実俊様は、これから式神と戦うのですか」
「ええ」
実俊が頷く。
「陰陽師として、人々を守らねばなりません」
実俊の目が、決意に満ちている。
我は、実俊を見ていた。
この男、昨日はあれほど悩んでいたのに。今は、しっかりとした顔をしている。
やはり、真白の言葉が、実俊を変えたのだろう。
「実俊様、どうかお気をつけて」
真白が実俊に言う。
「はい、必ず無事に戻ります」
実俊が真白に頭を下げ、屋敷を出ようとする。
その時、我は決断した。
我も、行く。
実俊一人では、危険かもしれない。
それに、式神のことなら、我にも経験がある。以前、猫を攫っていた寂しい式神を成仏させたことを、我は覚えている。
我は実俊の後を追って、屋敷の外へと駆け出した。
「玄丸!」
真白の声が聞こえたが、構わない。
実俊を、助けに行く。
*
都の東の方は、既に騒然としていた。
人々が逃げ惑い、悲鳴が上がっている。
そして、その中心に、式神がいた。
大きな式神だ。成人男性ほどの大きさがある。体は半透明で、目は赤く光っている。
暴走している。
周囲には、陰陽師たちが呪符を構えて対峙しているが、式神の力は強い。呪符が弾かれ、陰陽師たちが押されている。
「くそ、この式神、なぜこんなに強いのだ」
一人の陰陽師が呻く。
実俊が現場に到着する。
「遅れて申し訳ありません」
実俊が呪符を取り出す。
「真名井か。来てくれたか」
年配の陰陽師が実俊を見る。
「この式神、主を失ってから既に数日が経っている。だが、消えるどころか、力を増している」
「それは……」
実俊が式神を見る。
「おそらく、主の残留思念が強すぎるのです」
実俊が分析する。
「主が、何か強い想いを残したまま亡くなった。その想いが、式神を暴走させているのでしょう」
実俊の言葉に、年配の陰陽師が頷く。
「ならば、その想いを断ち切らねばならぬな」
「ええ、ですが」
実俊が式神を見つめる。
「容易ではありません」
その時、式神が動いた。
式神が手を振るい、周囲に衝撃波を放つ。
「うわっ!」
陰陽師たちが吹き飛ばされる。
実俊も、バランスを崩す。
まずい。
我は実俊の元へと駆けた。
「玄丸殿!」
実俊が驚いて我を見る。
「なぜ、ここに」
我は「にゃあ」と鳴いた。
お前を助けに来た。
実俊が我を見つめる。
「玄丸殿、危険です。下がってください」
だが、我は下がらない。
我は、実俊の前に立ち、式神を睨んだ。
式神が、我を見た。
その目には、狂気と悲しみが混じっている。
我は、式神の心を読み取った。
この式神は、主を失った悲しみに耐えられず、暴走している。
以前、猫を攫っていた寂しい式神と同じだ。
だが、あの時とは違う。
あの式神は、まだ消えかけていただけだった。
だが、この式神は、主の強い想いを受けて、力を増している。
我は、【土の理】結界座を発動した。
肉球から魔力を地面に流し込む。地面が光り、結界が展開される。
だが、それだけでは足りない。
式神の力は強い。小さな結界では、防ぎきれない。
我は、さらに魔力を込めた。
結界を、広げる。
そして、強化する。
我は、異世界で学んだ魔法の理論を思い出した。
土の理は、安定と境界を司る。
小さな結界を作るのではなく、大きな結界を作る。
そして、その結界で、式神を封じ込める。
我は、結界の範囲を広げた。式神を中心に、大きな円を描く。
「これは……」
実俊が驚きの声を上げる。
「結界、ですか。しかも、こんなに大きな」
実俊が我を見る。
「玄丸殿、あなた、一体」
我は構わず、魔力を込め続けた。
結界が、完成する。
式神が、結界の中に閉じ込められた。
「やった!」
陰陽師たちが歓声を上げる。
だが、我は油断しない。
結界は張れた。だが、それだけでは終わらない。
式神を、鎮めなければ。
我は実俊を見た。
「にゃあ」
実俊が、我の意図を理解したようだった。
「玄丸殿、私に何か手伝えることがありますか」
我は頷いた。
そうだ、実俊。お前の力が必要だ。
「分かりました」
実俊が呪符を取り出す。
「私が、式神の心を鎮めます」
実俊が呪符を掲げる。
「式神よ、主の想いを解き放て。お前は、もう自由だ」
実俊の声が、静かに響く。
だが、式神は動かない。
まだ、主の想いに縛られている。
我は、さらに魔力を込めた。
結界を、強化する。
そして、式神の動きを封じる。
土の理。安定と境界。
動くものを、止める。
流れるものを、固定する。
我は、結界の力を式神に集中させた。
式神の動きが、鈍る。
今だ。
「実俊!」
我は「にゃあ」と大きく鳴いた。
実俊が、理解する。
「今です!」
実俊が呪符を投げる。
呪符が式神に張り付く。
「式神よ、安らかに眠れ!」
実俊の声が、式神に届く。
式神の目から、赤い光が消える。
そして、式神の姿が、静かに透けていく。
「お、おかあ、さま……」
式神が、か細い声で呟く。
「ごめん、なさい……」
式神の体が、光の粒になって消えていく。
「さようなら……」
式神が、最後にそう言って、完全に消えた。
静寂。
結界が、ゆっくりと消えていく。
我は、魔力を解放した。
疲れた。
だが、やり遂げた。
「玄丸殿!」
実俊が我の元へと駆け寄る。
「大丈夫ですか」
我は「にゃあ」と小さく鳴いた。
大丈夫だ。少し疲れただけだ。
「玄丸殿、あなたは……」
実俊が我を見つめる。
「信じられません。あれほどの結界を、猫の姿で」
実俊の目が、驚きに満ちている。
「あなたは、一体何者なのですか」
我は、答えない。
ただ、「にゃあ」と鳴いただけだ。
「まあ、良いでしょう」
実俊が微笑む。
「あなたが、真白殿の傍にいてくれる。それだけで、私は安心です」
実俊が我の頭を撫でる。
今度は、避けなかった。
実俊は、信頼できる。
共に戦った仲間だ。
「真名井殿」
年配の陰陽師が実俊に近づいてくる。
「見事でした。あの式神を鎮めるとは」
「いえ、玄丸殿の助けがあったからこそです」
実俊が我を見る。
「この猫、ただ者ではありません」
「ほう」
年配の陰陽師が我を見る。
「確かに、ただの猫ではないな」
年配の陰陽師が我に頭を下げる。
「猫殿、ありがとうございました」
我は「にゃあ」と鳴いた。
礼には及ばない。
「さて、真名井殿」
年配の陰陽師が実俊を見る。
「今日の働き、見事でした。師にも報告しておきましょう」
「ありがとうございます」
実俊が頭を下げる。
年配の陰陽師が去った後、実俊が我を抱き上げた。
「玄丸殿、帰りましょう」
実俊が微笑む。
「真白殿が、心配していらっしゃるでしょう」
我は「にゃあ」と鳴いた。
そうだな。真白が心配している。
早く帰ろう。
*
屋敷に戻ると、真白が玄関で待っていた。
「玄丸!実俊様!」
真白が駆け寄ってくる。
「お二人とも、ご無事で!」
真白が我を抱きしめる。
「心配しました」
真白の声が、震えている。
「真白殿、申し訳ありません」
実俊が頭を下げる。
「玄丸殿を、危険な場所へ連れて行ってしまいました」
「いえ、玄丸が自分で付いていったのでしょう」
真白が我を見る。
「玄丸は、そういう子ですから」
真白が微笑む。
「でも、無事で良かった」
真白が我を強く抱きしめる。
我は、真白の温もりを感じていた。
ああ、帰ってきた。
真白の元へ。
「実俊様」
真白が実俊を見る。
「式神は、鎮められたのですか」
「はい」
実俊が頷く。
「玄丸殿の助けがあって、無事に鎮めることができました」
実俊が我を見る。
「玄丸殿は、本当にすごい」
実俊の目が、敬意に満ちている。
「玄丸殿がいなければ、私たちは勝てなかったでしょう」
実俊の言葉に、真白が我を見る。
「玄丸、ありがとう」
真白が我の額に、そっと額を重ねる。
「あなたは、私の誇りです」
真白の声が、温かい。
我は、目を閉じた。
誇り、か。
悪くない。
だが、我はただ、やるべきことをやっただけだ。
実俊を助け、人々を守る。
それが、正しいことだと思ったから。
真白が、我を撫でる。
その手の温もりが、心地よい。
我は、この場所が好きだ。
真白がいて、実俊がいて、真澄がいて。
この屋敷が、好きだ。
だから、守る。
どんな危険があろうとも。
それが、我の決意だ。
そして今日、我は新たな力を手に入れた。
土の理の成長。
小さな結界から、大きな結界へ。
守るだけでなく、封じることもできる。
これからも、真白を守るために。
我は、強くなり続ける。




