真澄外伝 第二十二話「井戸端の熱」
屋敷の裏手、使われなくなって久しい古井戸のそばには、いつも他とは違う空気が澱んでいる。
水を汲む者もなく、蓋をされたまま何年も放置されたその場所は、湿った石の匂いと、朽ちかけた木蓋の匂いが混じり合い、独特の澱みを作っていた。日中でも薄暗く、下男たちも用がなければ近づかぬ一角である。
真澄(かずらがみ の ますみ)が、そこを通りかかったのは、蔵の点検を終えた帰り道のことであった。手には、確認済みの目録を抱えている。急ぐ用でもなく、いつも通りの足取りであった。
井戸のそばに差し掛かった、その時である。
懐の中で、何かが跳ねた。
真澄の足が止まる。彼は目録を小脇に挟み、懐へ手を差し入れた。取り出した木片は、掌に収まりきらぬほどの熱を帯びていた――とまではいかぬが、確かに、これまでとは違う温もりを持っている。紋様の線が、心なしか濃く浮き上がって見えた。
「……」
彼は井戸の方を見遣った。古びた木蓋、朽ちた縄、それだけの、何の変哲もない光景である。だが、真澄の眉間には、うっすらと皺が寄っていた。
我もまた、屋根の上からその様子を見ていたが、鼻先を掠める何かに気づいたのは、真澄が木片を握り締めるのとほぼ同時であった。
あの乾いた、金気を帯びた匂い。林で嗅いだものと、根を同じくする気配。だが今度は、姿かたちは見えぬ。ただ、匂いの残滓だけが、井戸の底から立ち上ってくるかのようであった。
真澄は懐に木片を戻し、井戸の縁に歩み寄った。木蓋の隙間から、暗い水面が僅かに覗いている。彼はしばらくそれを見下ろしていたが、やがて何も見出せなかったのか、小さく息をついて背を向けた。
*
「真澄、そんなところで何をしていたの?」
声をかけてきたのは、庭の方から歩いてきた真白であった。手には摘んだばかりの花を数本、抱えている。
「井戸の様子を、確かめていたのでございます」
「あら、あの井戸? もう長いこと使っていないのに」
真白は真澄の隣に並び、井戸を覗き込むような仕草をした。花の香りが、風に乗って辺りに漂う。
「……この匂い、どこかで嗅いだことがあるような気がするわ」
真澄の肩が、微かに強張った。ほんの一瞬のことである。真白は気づいた様子もなく、首を傾げたまま、記憶を辿るように目を細めている。
「気のせいでござろう」
真澄はそう答えたが、その声には、いつもより一段低い響きがあった。真白はそれ以上追及せず、「そうかしら」とだけ呟いて、花を抱え直した。
「お母様の仏前に、これを供えてくるわ」
「承知でございます」
真白が歩み去った後も、真澄はしばらくその場に立ち尽くしていた。井戸の暗い水面と、彼女の残した「どこかで嗅いだことがある」という一言――その両方が、彼の中で何かを結びつけようとして、結びつききらぬまま漂っているように、我には見えた。
*
夜、真澄は自室の灯りの下で、木片を掌に載せていた。
紋様は、もう熱を持っていない。だが、彼はしばらくそれを見つめ続けていた。円の中を走る幾筋もの線――そのうちの一本が、以前よりも、ほんの僅かに外へと伸びているように見えるのは、気のせいであろうか。
真澄自身は、その変化に気づいていないらしい。彼はただ、木片を懐へ戻し、灯りを吹き消した。
だが我の目には、はっきりと映っていた。円の中に閉じていたはずの一本の線が、確かに、外側へと向かって、わずかに首をもたげている。
道しるべというものは、示す先が定まった時、初めてその形を変えるものらしい。
――どこへ向けて、その線は伸びようとしているのか。
我はまだ、それを知らない。




