真澄外伝 第二十一話「忘れているのは、どちらか」
覚えているということと、忘れていないということは、似ているようで違う。
前者は己の内に留めた記憶であり、後者は――時に、己の与り知らぬところで、誰かの内に留め置かれ続けることを指す。真澄(かずらがみ の ますみ)が今、抱えているのは、おそらく後者の類の重みであった。
あの日以来、彼の所作に、目に見えて大きな変化があったわけではない。庭を掃き、膳を整え、真白に仕える日々は、いつも通りに続いている。だが、我の目には、その「いつも通り」の隙間に差し込む、わずかな翳りが見て取れた。
眠りに落ちた彼の奥へ、我は今宵も降りていく。
*
木立を抜けた先に、小さな塚があった。
土を盛っただけの、質素な墓である。石一つ置かれてはいないが、周囲だけ雑草が丁寧に刈られており、誰かがこの場所を大切にしていることは一目で知れた。
少年の真澄は、その前に座り込んでいた。あの林での出来事から、幾日か経った頃合いであろう。膝を抱え、塚の土を見つめる横顔には、迷いの色が濃く滲んでいる。
「――母上」
呼びかけたきり、続く言葉はなかった。志乃はもうこの世になく、答える声もない。それでも彼は、時折こうして、答えのない相手に語りかける癖があるらしかった。
我は少し離れた木の陰から、その背を見つめる。異世界にて幾多の弔いの場を見てきたが、これほど静かな祈りは珍しい。声を荒らげることも、涙を見せることもなく、ただ膝を抱えて座っているだけの姿が、かえって深い喪失を物語っていた。
やがて彼は、懐から木片を取り出した。掌の上で転がし、紋様を親指の腹でなぞる。あの林で「それを持っているうちは」と告げられた言葉の続きを、彼は幾度となく想像してきたに違いない。
「あの声は――」
言いかけて、彼は首を振った。老人でもない、村の誰でもない、あの声の主が誰であるのか、確かめる術を彼は持たない。問い詰める相手もなく、答えを得る手立てもなく、ただ記憶の底に沈めておく他なかったのだろう。
だが、沈めたところで、消えるわけではない。
真澄は木片を握り込み、ふたたび塚へと目を戻した。
「母上は、ご存知でございましたか」
問いは、宙に消えた。志乃が生前、あの声の主について何かを知っていたのか、あるいは何も知らぬまま逝ったのか。今となっては、確かめる術もない。
彼はしばらくそのままでいたが、やがて立ち上がり、塚に一礼して踵を返した。振り返らずに歩き出す足取りは、来た時よりも幾分か重く見えた。
木立を抜ける手前、彼の足が、ふと止まった。
視線の先、地面に落ちた影――己の影の輪郭が、一瞬だけ、いつもより長く伸びたように見えたのだ。彼は目を細め、しばし見つめたが、瞬きの後にはもう、ただの見慣れた影に戻っていた。
気のせいでござろう、とでも言うように、彼は小さく頭を振り、再び歩き出した。
*
目を開ければ、真澄は文机に向かい、筆を執っていた。何事もない、いつも通りの午後である。だが、その筆先は、先刻から一行も進んでいないらしい。
「真澄、根を詰めすぎではなくて?」
真白の声に、彼はようやく我に返ったように筆を置いた。
「恐れ入ることでございます。少々、考え事をしていたのでございます」
「珍しいのね、あなたがそんなふうになるなんて」
真白は微笑みながら、湯呑みを差し出す。真澄はそれを両手で受け取り、一礼した。
「お心遣い、ありがたきことでございます」
いつも通りの声。いつも通りの所作。だが、我にはもう分かっている。彼の内で、何かが静かに揺れ続けていることを。
真澄は忘れている、あの林での出来事の細部を、あるいは意図して思い出さぬようにしているのやもしれぬ。だが、母の塚の前で彼が漏らした問いだけは、忘れてなどいなかった。
母上は、ご存知でございましたか――その一言が、我の耳の奥に、まだ残っている。
答えを持たぬまま塚に語りかける者の背中というものを、我はこれまで幾度も見てきたはずであった。それでも今宵の光景だけは、妙に、我の胸の内に居座って離れようとしない。




