真澄外伝 第二十話「馴染まぬ匂い」
風が変わる日は、匂いで分かる。
土の湿り、木の芽吹き、獣の通った跡。この平安の地に慣れ親しんだ匂いの群れの中に、時折、異物が紛れ込むことがある。それは大抵、都に迷い込んだ妖の気配であったり、遠国から運ばれた香であったりするのだが――今、我の鼻先を掠めたものは、そのどちらとも異なっていた。
土でも、獣でもない。むしろ、灼けた金気に近い、乾いた匂い。
真澄(かずらがみ の ますみ)の懐から漂うものではない。木片からでもない。ならばこれは、我自身の内側――夢鏡の奥底に沈んだ、彼の記憶そのものから滲み出しているものであった。
昨夜の木片の一件以来、我はまだ夢鏡の糸を結んだままにしている。真澄の許しなど、端から求めてはいない。彼が眠りに落ちれば、我はその奥へと降りていく。それだけのことである。
――
闇が、我を吸い込んだ。
――
老人が姿を消してから、幾日が過ぎていたか。少年の真澄――当時いくつであったか、背丈から推すに、十四か十五であろう――は、藤原家の裏手に広がる雑木林で、薪拾いの務めをこなしていた。
木片は、常に懐にあった。老人から託されたそれを、彼は肌身離さず持ち歩いている。触れるたび、何かを確かめるように親指の腹で紋様をなぞる仕草は、この頃すでに癖となっていたらしい。
薪を束ねる手を止めたのは、風向きが変わった瞬間であった。
土でも獣でもない、あの乾いた匂い。少年の真澄の鼻が、それを捉えた。人よりも鋭いその嗅覚は、半妖の血の証であった。
彼は顔を上げ、林の奥へと視線を送る。木々の隙間、光の届かぬ場所に、何かが立っていた。
人の形はしている。だが、輪郭の際が、妙に滲んでいた。まるで、そこだけ陽炎が立っているかのように。
真澄の手が、懐の木片を握り込んだ。紋様が、掌の中でわずかに熱を帯びた気がした――が、確かめる間もなかった。
その影が、動いた。
一歩を踏み出した刹那、鳥の声が絶えた。風も、止んでいた。林全体が、息を潜めたかのようであった。
二歩目。近づく速さは、人のそれではない。瞬きの間に、間合いは半分に詰まっていた。
「……久しいな」
声は、低く、乾いていた。老人のそれとは違う。もっと若く、もっと鋭い響きを持つ声であった。
真澄は答えなかった。答えられなかった、と言うべきかもしれぬ。喉が、強張っていた。
影の輪郭が、ようやく人の顔を結ぶ。目だけが、金色に光っていた。その色に、彼は覚えがあった――己が水面に映した時、時折その目に浮かぶのと同じ色であった。
「大きくなったものだ」
その一言だけで、彼の眉が微かに動いた。
「お前は――」
そこまで言いかけて、彼は言葉を止めた。名を問うことも、正体を問うこともできず、ただ、握り込んだ木片の角が掌に食い込むのを感じていた。
影は答えなかった。代わりに、片手を持ち上げ、その胸の辺りを指し示す。木片を、見透かすように。
「それを持っているうちは」
言葉は、そこで途切れた。
林の奥から、誰かの呼び声がした。屋敷の下男が、真澄の名を呼んでいる。日常の、ありふれた声であった。
彼が振り返ったのは、ほんの一瞬。だが、視線を戻した時には、影はすでに消えていた。木々の間に、乾いた匂いの残り香だけが、薄く漂っている。
真澄はしばらくその場に立ち尽くしていた。手の中の木片は、もう熱を持っていない。ただの木の切れ端に戻ったかのように、静かであった。
彼は懐にそれを収め、拾いかけの薪へと視線を落とす。何事もなかったかのように、束ねる作業を再開した。だが、その手つきは、先ほどまでより幾分か固く、そして遅かった。
――
目を開けば、真澄は縁側で書見をしていた。何事もなく、いつも通りの午後である。木片は、今も懐の中にあるらしい。時折、指先がそこへ伸びかけては、思い直したように文机へと戻る。
「真澄、これ、面白い話が書いてあるの。あとで読んでみて」
真白が差し出した書物を、真澄は両手で受け取った。
「かたじけないことでございます。後ほど、じっくりと拝見するでございます」
いつも通りの声、いつも通りの所作。彼自身は、あの林の出来事を覚えていないのか、あるいは覚えていて、ただ語らぬだけなのか。我にはまだ判じかねる。
老人が、「渡せるうちに、渡さねばな」と呟いていた相手が、あの声の主であるのかどうかも、我はまだ知らぬ。
だが一つだけ、確かなことがある。
あの声は、老人の作り出した気配ではなかった。老人とは異なる、しかし確かに血の繋がりを思わせる響きを、あの声は持っていた。
真澄は忘れている。
だが、あちらは忘れていない。我には、その事実だけで十分に不気味であった。




