真澄外伝 第十九話「眠らぬ木片」
掌にも満たぬ、ただの木片である。
円の中に、幾筋もの線が歪みながら走る紋様。削り出したというより、焼き付けたに近い黒ずみを帯びている。それだけの代物が、あの男の懐に収まって以来、屋敷の空気の何かを、微かに変えているように我には思えてならない。
真澄(かずらがみ の ますみ)は、いつも通りに務めを果たしている。庭を掃き、真白の朝餉の膳を整え、来客の取次ぎをこなす。傍目には、何一つ変わらぬ家令の一日である。
だが、我は見ている。
膳を運ぶ足が、廊下の角で半瞬だけ止まる。誰かに呼ばれたわけでもないのに、懐へ手をやりかけて、思い直したように止める。その繰り返しを、この三日で幾度目にしたか、我はもはや数えるのをやめた。
理の乱れ、と片付けるには、些か規則正しすぎる乱れであった。
――
昼下がり、真白が縁側で文を読んでいた。真澄が茶を運んでくると、彼女は顔を上げ、少し首を傾げた。
「真澄、近頃、考え事でもしているの?」
「別段、何用もないことでございます。見苦しきものをお目にかけましたなら、申し訳ないことでございます」
「ううん、そうじゃなくて」
真白は湯呑みを受け取りながら、目を細めた。
「時々、遠くを見ているような顔をするから。心配していたの」
真澄は一拍置いてから、膝の上で軽く手を組んだ。
「案ずるには及びません。ただ、少し――昔のことを思い出しておりました」
「昔のこと?」
「大した話ではないのでございます」
それだけ言って、真澄は一礼し、静かに下がっていった。廊下の途中で、また懐に触れかけ、また止めた。真白の視線はもう届かぬ距離であったが、我には見えていた。
昔のこと、と彼は言った。噓ではなかろう。だが、それだけでもなかろう。
――
夕刻、厨からお梅の声が響いていた。今日は菜の仕込みで蕗と言い合いになっているらしく、いつもの騒がしさである。その喧噪から離れた廊下の隅で、我は真澄の背を見つけた。
彼は柱に寄りかかり、懐から例の木片を取り出していた。掌の上で転がし、紋様の刻まれた面を親指の腹で撫でている。声はない。ただ、指の動きだけが、何かを確かめるように繰り返されている。
我が音もなく近づいても、彼は気づく素振りを見せなかった。それほど深く、その木の切れ端に意識を注いでいたということだ。
やがて彼は木片を握り込み、小さく息を吐いた。息、というよりは、詰めていたものを手放すような仕草であった。
「……何を、渡そうとしておられたのでござろう」
それは我に向けた言葉ではなく、誰もいない空へ向けた呟きであった。答えを期待していないことは、声の張りのなさから知れた。
我は柱の陰から、ただその横顔を見上げるだけであった。人でも妖でもない老人の言葉が、この男の内側で、まだ形を持たぬまま渦を巻いている。渡せるうちに、渡さねばな――あの夜、焚き火に向かって呟かれた一言を、我はまだ彼に明かしていない。明かす理由も、今はない。
――
夜が更けても、真澄の部屋の灯りは消えなかった。
我は縁の下から屋根伝いに移り、彼の部屋の格子の隙間から中を窺った。文机の前に座った彼は、書き物をする様子もなく、ただ木片を両手で包み込んでいる。
満月には程遠い、痩せた月の晩であった。庭に落ちる光は乏しく、部屋の中はほとんど闇に沈んでいる。それでも真澄は灯心を絞らず、木片の紋様に目を落とし続けていた。
眠らぬのか、と我は思う。眠れぬのか、とも思う。両者の違いを、この男自身がまだ判じかねているように見えた。
やがて彼は、木片を持つ手にわずかに力を込めた。
その刹那、我の目に映ったものがある。
紋様の線の一本が、ほんの束の間、色を変えた。光ったと言うには弱すぎ、見過ごすには確かすぎる、その中間の何か。灯心の炎が揺れて紛れてしまいそうな、一呼吸ぶんの変化であった。まるで、長く眠っていたものが、寝返りを打ったかのような。
真澄の指先が、びくりと強張った。彼は木片を顔の高さまで持ち上げ、しばし食い入るように見つめる。
「……気のせいでございましょう」
そう呟いて、木片を懐へ戻した。声には、自らに言い聞かせる響きがあった。信じたくない、というよりは、確かめる術を持たぬ者の諦めに近い。
灯りが落とされ、部屋は闇に沈んだ。
我は屋根の上で、しばらくその場を動かなかった。
――
気のせいではない、と我は思う。
我が異世界にて幾千の呪具を見てきた目は、伊達ではない。あの一瞬の揺らぎは、木片そのものが放ったものであった。誰の意図でもなく、誰の術でもなく、木片が自らの意志めいたもので、確かに応えたのだ。
何に応えたのかは、我にも分からぬ。真澄の指の温もりか、その夜の月の薄さか、あるいは、それ以外の何かか。
だが一つだけ、確信めいて言えることがある。
道しるべとは、人が歩き出してから示すものではない。歩き出す前から、静かに待っているものらしい。




