真澄外伝 第十八話「師との再会」
風が、皮膚の産毛を逆立てた。
暑くも寒くもない。にもかかわらず、肌だけが何かを察して粟立つ。この感覚には覚えがある。満月の夜、理の揺らぎが強まる直前に決まって走る、あの張り詰めた気配であった。
真澄は懐の木片を握ったまま、木立の奥を見据えていた。昨夜、遠くに見えた後ろ姿を追い、今宵もまた同じ道を辿ってきたのである。屋敷の者には告げていない。我一匹だけが、その背に付き従っていた。
道は細く、やがて途切れた。行き止まりの先に、古い岩肌が剥き出しになった窪地がある。
そこに、人影があった。
継ぎの当たった衣、深い皺、痩せた肩。焚き火の向こうでいつも見ていた、あの佇まいであった。
真澄の足が止まる。声を出そうとして、出せずにいる。
「……生きて、おられたのでござ――」
語尾が崩れた。だが今度は、それを恥じる余裕すらないらしい。
老人は動かなかった。ただ目だけを細め、真澄の背丈を上から下へ辿った。
「大きくなった」
それだけであった。
真澄が一歩、また一歩と近づく。距離が半分になったところで、老人が片手を上げた。それ以上は寄るな、という仕草であった。真澄の足が、素直にそこで止まる。
我は二人の間合いを、地に伏せたまま見守った。かつての師弟の距離は、歳月を経てもなお、その側だけが頑なに保たれている。
真澄が懐から木片を取り出し、掌の上に乗せて差し出した。
「これは」
問いは、それだけで終わった。老人はその紋様に一瞥をくれると、短く答えた。
「道しるべだ」
「何への、道しるべにございますか」
「使う時が来るまで、身から離すな」
問いに、問いで返されているに等しい。真澄の眉が微かに寄ったが、それ以上を重ねる暇はなかった。
「いずれ来る」
老人の声が、風に紛れるほど低く落ちた。
「……誰が、参るのでございますか」
「その時になれば知る。」
それきりであった。
我は耳を伏せた。この男の物言いは、歳月を経ても変わらぬらしい。肝心なところで、必ず一枚、扉を閉じる。
真澄が口を開きかけた、その刹那。
老人の輪郭が、影に溶けるように薄れた。
残響もなく、足音もなく、ただそこにあった気配だけが、潮が引くように消えていく。窪地には、乾いた風と、真澄の握りしめた木片だけが残された。
――
帰り道、真澄は一言も発さなかった。
我はその横を歩きながら、幾度か振り返った。木立の奥に、もう人影はない。だが、老人が最後に見せたあの間合い――決して踏み込ませぬ、あの半歩の距離だけは、我の中に長く残った。
教える者と、教わる者。かつてはただそれだけの間柄であったはずが、今宵の隔たりには、別の理由が透けて見えた気がしてならない。
あの男は、真澄に近づきすぎることを、自らに禁じている。
なぜかは、まだ分からぬ。だが、木片に刻まれた紋様と、あの頑なな半歩の距離とが、同じ一つの理由から発しているであろうことだけは、疑いようがない。
真澄が屋敷の門をくぐる。その背に、我は声もなく続いた。
いずれ来る、と老人は言った。何が来るのかは語らず、ただ備えよとだけ告げて消えた。
我にとっても、覚えのある流儀である。大切なことほど、理屈より先に、沈黙で示す者がいる。あの男もまた、そうした類の者であるらしい。




