真澄外伝 第十七話「残された紋様」
庭の隅に、焦げ跡ほどの黒い染みが残っていた。
昨夜の揺らぎが立っていた場所である。土そのものが変質したわけではない。だが、鼻を近づけると、木の芯を炙ったような、微かに乾いた匂いが確かにある。影走り(かげばしり)の術には、常人には嗅ぎ取れぬ残り香が伴うことを、我は幾度も学んできた。
真澄はその場にしゃがみ込み、指先で土をひとすくいすると、そのまま黙って掌の上で転がした。
「……この匂い」
言葉はそこで途切れた。だが、その顔つきだけで、答えは知れた。かつて修行で嗅がされた、あの気配とどこか根を同じくするものであろう。
真澄が立ち上がり、迷いなく歩き出す。我も後を追った。屋敷の裏手を抜け、竹林を過ぎ、都の喧噪が遠のいた先に、忘れられたように朽ちた小さな祠がある。誰の目にも留まらぬその場所へ、真澄の足は迷いなく向かっていた。
祠の前に、誰もいなかった。
拍子抜けするほど、静かな場所であった。だが、真澄はそこで足を止めたまま、しばらく動かなかった。
我は地に鼻を寄せた。石の縁に沿って、乾いた土が微かに凹んでいる。誰かが長く腰を下ろしていた跡であろう。踏み固められた形は人のそれだが、その周囲だけ、草の生え方が不自然に乱れている。まるで、そこだけ長い時をかけて刈り込まれてきたかのように。
真澄が屈み込み、祠の裏手を覗き込んだ。石と苔の隙間に、何か白いものが挟まっている。
小さな木片であった。
表面に、見覚えのない印が刻まれている。円の中に、歪んだ線が幾筋も走る紋様であった。真澄はそれを摘み上げ、掌の上に乗せた。指先が、木片の縁をなぞるように動く。
「……見た、覚えが」
語尾が、また崩れた。今度はそれを気にする様子すらない。真澄の目は木片の紋様に釘付けになったまま、微動だにしなかった。
我はその手が震えているのに気づいた。木片を握る指の力が強すぎる。歯を食いしばるでもなく、涙を見せるでもない。ただ、握った拳の内側だけが、何かを堪えるように白くなっている。
我は迷わず、その手に額を寄せた。
次の瞬間、視界が真澄の記憶へと引き摺り込まれた。石畳を踏み外すように、唐突に。
――
目覚めた朝、岩屋には誰もいなかった。
焚き火の跡はまだ生温かったが、姿はどこにもない。真澄は声を上げず、ただ黙って周囲を歩き回った。荷も、杖も、肌身離さず持っていた麻袋も、すべて消えている。
置き去りにされたのではない。なぜかそう分かった。何かから逃げるように――あるいは、何かに呼ばれるように、姿を消したのだと。
岩屋の隅、灰の中に、一つだけ小さな痕があった。木の枝で急いで描かれたらしい、歪んだ円と幾筋かの線。今、掌の上に見ているものと、同じ紋様であった。
当時はそれを深く考えなかった。灰を払い、荷をまとめ、都を目指して歩き出した。振り返る場所は、もうなかったのだから。
――
視界が現在へ引き戻される。
真澄は木片を握ったまま、祠の跡地にただ立ち尽くしていた。
あの朝、灰の中に残された紋様。今、石の隙間に隠されていた紋様。同じものが、時を跨いで二度、彼の前に現れたことになる。
偶然ではあるまい。誰かが、この紋様をここに残していった。姿を見せぬまま、痕跡だけを置いていく――そのやり方そのものが、あの日の朝と、あまりにもよく似ている。
真澄が木片を懐へしまい、踵を返した。屋敷へ戻る足取りは、来た時よりも幾分か重い。
我も後を追おうとして、ふと視線を上げた。
祠を囲む木立の奥、闇に紛れかけた一点に、人の背丈ほどの影があった。
こちらを見ているのか、通り過ぎるだけなのか、判じようもない。だが確かに、そこに立っていた。
真澄が、はっと息を呑んで振り返った。
我もまた、その先を見た。
木立の影は、すでに消えていた。ただ一枚、乾いた葉が枝から離れ、音もなく地へ落ちる。風に揺れる葉音だけが、そこにあったものの気配を、かろうじて留めていた。
真澄は何も言わなかった。ただ、懐の木片を、上から掌で強く押さえた。
あの背があの男のものであったのか、我にはまだ判じかねる。だが少なくとも一つ、確かなことがある。姿を見せぬまま痕跡だけを残していくこの流儀に、我は覚えがありすぎるほどある。




