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【本編完結】平安猫魔伝〜異世界を滅ぼした魔導王、平安の都で猫になる〜【連載版】  作者: 伊勢吉
番外編

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真澄外伝 第十六話「影の呼び声」

足音が、途中で消えた。


夜番の見回りに付き合わされていた我は、その一点だけを確かに聞き取った。庭木の際で規則正しく続いていた真澄(ますみ)の草履の音が、ふっつりと途切れたのだ。転んだのでも、立ち止まったのでもない。音そのものが、根から刈り取られたかのようであった。


我は尻尾を大きく一振りして地を蹴り、白砂の上を駆けた。


塀際に立つ真澄の背は、闇の中でも異様に強張っていた。視線の先――竹垣の隙間、その向こうの雑木の陰に、揺らぎがあった。


人の形をしているようで、していない。輪郭が、墨を水に垂らしたように滲んでは締まる。夜風に揺れる木の影とは明らかに理屈が違う。あれは、影走り(かげばしり)の――


真澄が動いた。


声もなく地を蹴り、垣の隙間へ身を沈めた。かつて老人に授けられた技を、迷いなく使う。影と影の継ぎ目を渡るあの歩みを、我はもう幾度も見てきたが、今宵のそれには、これまでにない性急さがあった。


我も遅れじと後を追った。猫の脚は塀を跳ぶに造作もない。だが、追いついた頃には、すでに勝負は終わっていた。


真澄は雑木の根方に片膝をつき、荒い息を吐いていた。手にした小刀の切っ先は、何もない虚空を突いている。


「……逃げられ申した」


珍しく、語尾が崩れていた。息を整える間もなく発された一言だからであろう、いつもの「でございます」の型に嵌る前に言葉が零れたようであった。


我はその足元に寄り、地を嗅いだ。土に焦げたような匂いは残っていない。木の葉一枚、乱れた様子すらない。まるで最初から誰もいなかったかのごとき静けさが、そこにはあった。


だが、真澄の目だけは、その静けさを信じていなかった。


あの夜――一年ほど前になろうか、垣の外で狂犬に襲われかけた真白(ましろ)を救った折、彼の影走りが野犬の跳躍を弾いたように見えた一幕があった。あの日、真澄自身もまた、自らの技とは異なる何かがそこに紛れていたのではないかと、内心で疑っていた節がある。


今宵の揺らぎは、その疑いに輪郭を与えたに違いない。


真澄は小刀を鞘に納め、立ち上がった。だが、その足取りにはまだ迷いが残っている。振り向いた拍子に我と目が合うと、束の間、何かを言いかけて――結局、何も言わずに口を閉ざした。


言えぬのではない。まだ、言葉にする形を持たぬのであろう。


我は判断した。理屈をこねている暇はない。当人の記憶に、答えの糸口があるならば、これを手繰るしかない。


水の理(みずのことわり)――夢鏡(むきょう)。月光を借りて他者の記憶を覗くこの術を、本人の許しも得ぬままに用いるのは、いささか品のない振る舞いであろう。だが、非礼を詫びるのは事が済んでからでよい。


我は真澄の足に額を寄せた。


次の瞬間、視界が縦に裂けた。


なだらかに溶けるのではない。刃で断ち切られるように、現在が真澄の過去へと呑み込まれていった。


――


修行の場は、山中の岩屋であった。


まだ十を幾つか超えたばかりの真澄が、影の中に半身を沈めては、抜け出すことを繰り返している。息は上がり、額には玉の汗が浮いていたが、その目には諦めの色がない。老人はその様を、焚き火の向こうから黙って眺めていた。


「甘い」


短い一言だけが飛ぶ。真澄はまたそこへ沈み、また抜け出す。幾度目かの後、ようやく老人が腰を上げた。


「影は、逃げ場ではない。境目だ。人でも妖でもない者だけが、境目に立つことを許される」


老人の声には、教える者特有の熱がない。ただ、事実だけを述べる硬さがあった。


「境目に長く留まれば、いずれ人でも妖でもなくなる。それを恐れる者は、影走りを極められぬ」


真澄は膝に手をつき、荒い息のまま老人を見上げた。


「……恐れなければ、どうなるのでござ――」


そこで声が詰まった。まだこの時分の真澄には、あの「でございます」の型が定まっていない。年若い者らしい、粗削りな言葉遣いのまま、続きを紡いだ。


「恐れなければ、どうなるのだ」


彼は焚き火に一本、薪をくべた。炎が爆ぜ、その顔に一瞬だけ深い皺の陰影を刻んだ。


「己が何者かを、忘れずに済む」


答えになっているようで、なっていない。だが真澄は、それ以上を問わなかった。老人の言葉には、常にこの手の余白があり、真澄はいつしか、その余白を埋めようとせず、そのまま抱えて歩く術を覚えていた。


夜が更け、当人が薪を集めに岩屋を出た隙、彼はひとり、焚き火に向かって呟いた。その耳には届かぬ声量で、しかし確かに、言葉として発せられていた。


「あの子の血の匂いは、遠くまで届く。……渡せるうちに、渡さねばな」


誰に、何を。


問いを立てる者は、その場にいなかった。老人はすぐに口を噤み、焚き火の爆ぜる音だけが岩屋に残った。


薪を抱えて戻った真澄は、いつもと変わらぬその背を見て、何も気づかぬまま、稽古の続きに戻った。


――


視界が引き戻される感覚は、いつも唐突である。


我は真澄の足元にうずくまったまま、瞼を開いた。真澄は先ほどと変わらぬ姿勢で立っている。夢鏡で覗いた記憶は、本人にとってもまだ手の届かぬ場所にあったのであろう、その顔に変化はなかった。


だが、我の中には一つ、拭い難い引っかかりが残った。


あの老人は、誰かに向けて「渡さねば」と口にした。本人にすら聞かせぬその一言は、何を、誰に、宛てたものであったのか。


真澄が屋敷へ向けて歩き出す。我もその後を追いながら、月を仰いだ。


薄雲の切れ間から覗く光は、いつもと変わらぬはずであった。だが、その白さの奥に、何か別のものが紛れているような気がしてならなかった。


あの老人が案じていたのは、目の前の弟子のことだけではなかったらしい。ならば今宵の揺らぎもまた、あの一言と無縁ではないのかもしれぬ。


まだ、答えを出すには早い。だが、少なくとも一つだけ、確かなことがある。


あの男が背負っているものは、忠義だけではないらしい。老人が渡そうとしたもの。それが何であるかを知るまで、我はもう、この夢鏡を止めることはできぬ。

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