真澄外伝 第十四話「駆けた分だけ」
甲高い悲鳴が、庭の奥から響いた。
我が耳を立てるより先に、真澄の姿は既に廊下から消えていた。声のした方角へ、影の中を駆け抜けていったのであろう。残されたのは、乱れた足音の名残だけであった。
騒ぎの正体は、すぐに知れた。飼われていた仔犬が、蜂の巣を突いて暴れただけのことである。真白は悲鳴を上げた張本人ではなく、単に驚いて声を上げた乳母を心配して駆けつけただけであったが、それを聞きつけた彼の反応は、常より明らかに速かった。
あの反応の速さは、どこから来たものか。我はふと、その根を確かめたくなった。
耳に残る悲鳴の残響を辿るように、我は闇の奥へと沈んでいった。
――
真白が七つになった年の、夏の盛りであった。
蝶を追いかけていたその子は、乳母の目を盗み、庭を囲む垣根の外へと出てしまっていた。屋敷の者が気づいた時には、既にその姿はどこにもなかった。
知らせを受けた真澄は、影走りの技で垣根の外へ飛び出した。方角も分からぬまま、ただ気配だけを頼りに、林の中を駆けた。
やがて、林の奥から鈍い唸り声が聞こえた。駆けつけると、崖際に追い詰められたその子の前に、痩せた野犬が牙を剥いていた。狂犬であろうと、後になって知れた。
「真白!」
思わず声が出た。彼女は身を強張らせたまま、その場に立ち尽くしていた。
真澄は考えるより先に踏み込み、脇差を抜いた。獣は泡を飛ばしながら何度も飛びかかり、彼は真白を庇うように半歩ずつ位置を変えた。牙が空を切るたび、地に散った土が、崖際まで舞い上がった。
やがてそれが跳びかかる寸前、視界の端で、何かが黒く揺れた。
一瞬、影が別の影を弾いたように見えた。その跳躍が、僅かに逸れる。
その隙を逃さず、彼はそれを峰打ちで払い、そのまま真白を抱き寄せた。獣は甲高く鳴いて、林の奥へと逃げていった。
腕の中で、その子が小さく震えていた。真澄はその震えが止まるまで、ただ抱きかかえ続けた。声をかける言葉は、思いつかなかった。
林の奥に目を凝らしたが、先ほど見えた黒い揺らぎの正体は、どこにもなかった。獣の足跡以外、何一つ残ってはいなかった。
「今のは……」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
屋敷へ戻る道すがら、真澄は真白を背に負っていた。軽い重みであったが、その重みが、これまで感じたことのない確かさを持って肩に食い込んだ。
この子を、我が命に代えても守る。
言葉にせずとも、その一事だけは、疑いようもなく胸に定まっていた。忠義という務めのためではない。ただ、この重みを二度と失いたくないという、それだけの理由であった。
――
悲鳴の残響が、静けさの中に消えていった。
あの日の重みが、今の忠勤の芯になっているのは、疑いようもない。だが、我にはもう一つ、拭えぬ引っかかりがあった。あの林で見た黒い揺らぎ――影走りの技によく似た動きを、あの日、確かに見た気がしてならぬのだ。
彼が誰かに教わったものか、それとも別の誰かがあの場にいたのか。今となっては、確かめる術もない。
真白は今も、真澄が声を荒げるところを見たことがないと言う。あの夏の日、崖際で聞いた「真白!」の一声だけが、例外であったらしい。




