真澄外伝 第十二話「誓わされぬ誓い」
香の匂いが、廊下の奥から漂っていた。
真澄が焚くそれは、いつも同じ調合であった。仏間で焚くものと、客間で焚くものとを、彼は決して取り違えない。匂いの違いを、鼻先だけで見分けているらしかった。
その几帳面さの根は、いつから始まったものか。我はふと、その由来を確かめたくなった。水の理を纏わせ、漂う筋を辿るように、記憶の奥へと入り込んでいく。
香の匂いが、闇の底へと薄れていった。
――
母屋に上げられて三日目、真澄は再び当主の前に呼び出された。
「このまま、当家で仕える気はあるか」
唐突な問いであった。真澄は言葉に詰まった。
「望むなら、路銀を持たせて放免してもよい。誰にも縛られず、好きに生きるがよかろう。だが、望むなら、この屋敷に留まり、家中の一人として働くことも許す」
当主はそう言うと、答えを急かさなかった。ただ、静かにその顔を見ていた。
真澄は迷った。老人の教えは、「生き延びるためには影になれ」というものであった。誰にも縛られず、誰にも見つからずに生きる術――それを、この身に叩き込まれてきた。屋敷に留まるということは、その生き方を手放すに等しい。
だが、留まらずに去れば、また独りに戻る。飢え、盗み、利用され、石を投げられた日々に。
母を失い、老人にも去られた身に、また誰かを頼る資格があるのか。真澄はそれを、幾度も己に問うた。
「答えは急がずともよい。だが、一つだけ言うておく」
当主は庭の方へ目をやりながら、続けた。
「この家も、これから賑やかになろう。老いた身ゆえ、その日々をいつまで見届けられるかは分からぬ。もしお前がここに残るなら、わしに代わって見届けてくれる者の一人になってほしい」
賑やかになる、という一言の含みを、彼はまだ量りかねていた。だが、颪狼から幼子を守ったあの夜のことが、脳裏をよぎった。誰かを守るということに、理由など要らなかったはずだった。
その夜、真澄はあてがわれた一室で、譲られた脇差を膝に置き、長く考え込んだ。
生き延びるためだけに生きるなら、影のままでいればよい。だが、母の教えも、老人の技も、当主の言葉も、突き詰めれば同じ一つのことを指しているように思われた。
――誰かのために、この身を使え。
翌朝、真澄は当主の前に膝をつき、深く頭を垂れた。
「この身、当家にお仕えいたしとうございます」
「よかろう」
短い返答であった。当主はそれ以上、多くを語らなかった。ただ、真澄の肩に一度だけ手を置き、離れていった。
命じられた誓いではなかった。乞われた奉公でもなかった。ただ、己の意志で選び取った答えであった。
――
香の筋が、元の静けさに戻っていった。
命じられずとも、乞われずとも、この男は己で忠義を選び取ったと見える。だからこそ、今の寡黙な奉公ぶりに、恩着せがましさの欠片もないのであろう。我はそう得心しながら、その背を見つめた。
香炉の灰を整え終えた真澄が、我の傍らを通り過ぎながら、独り言のように呟いた。
「あの日、選ばずともよかった道でございます。それでも、選んだのでございます」
その一言に込められたものの重さを、我はまだ推し量りかねている。




