真澄外伝 第十話「消えた背中」
指先が、冷えた木の縁をなぞっていた。
藤原家の縁側、真澄は柱の傷を確かめるように指を這わせていた。古い刀傷のような一筋の凹みであった。誰がつけたものか問う者はなく、彼自身も語ったことはない。だが、その指の動かし方――何かを惜しむような、確かめるような仕草に、我は見覚えがあった。
水の理が疼く。指先の記憶をたどるように、我は闇の奥へと沈んでいった。
木の感触が、掌の中で遠ざかっていった。
――
颪狼の一件から幾年か過ぎた頃、真澄は十二、三の年頃になっていた。
朽ちた社の床下は変わらぬ寝床であったが、その姿だけが、ある朝忽然と消えていた。
その前の晩だけは、老人は稽古をつけなかった。ただ囲炉裏の火を眺め、いつもより長く黙っていた。理由を問う気にはならず、真澄もただ隣に座っていた。
やがて、その口が珍しく開いた。
「お前の道は、もうここにはない」
それだけであった。行く先も、理由も語られなかった。真澄は問い返そうとしたが、老人は既に背を向け、闇の中へ歩き去っていた。
翌朝、床下には木の椀と、擦り切れた古い脇差が一振り、残されていた。持ち主の姿は、どこにもなかった。
彼は幾日か、社の周りを探した。獣道を辿り、峠の向こうまで足を延ばしたこともあった。だが、影を操る老人の足取りを、影走りの技だけで追えるはずもなかった。追うことを諦めたのは、七日目の朝であった。
置き去りにされたという思いはなかった。ただ、教わるべきことは既に教わり終えていたのだと、真澄は自分にそう言い聞かせた。木の椀を懐に仕舞い、脇差を腰に差すと、彼は社を後にした。
行く当てはなかった。ただ、山を下れば都に近づくという、それだけを頼りに歩いた。
幾日か歩き続けた末、辿り着いたのは、都の北山にほど近い、大きな邸の裏手であった。白砂の塀が続き、その向こうに整えられた庭木の影が覗いていた。
夜半、その裏手で物音がした。塀の内から、争うような声が漏れていた。下人らしき男が、賊らしき影に組み伏せられている。真澄は考えるより先に、影の中を駆けていた。
脇差の峰で賊の腕を打ち、怯んだ隙に下人を引き離す。一瞬の出来事であった。だが、騒ぎを聞きつけた邸の者たちが、すぐさま駆けつけてきた。
灯りに照らされた真澄の姿――薄汚れた衣、腰の脇差、そして人ならぬ気配を纏うその佇まいに、人々は色めき立った。
「賊の仲間か」
「いや、あれは……人ではないぞ」
囲まれ、槍の穂先を向けられても、真澄は逃げなかった。逃げれば、また同じことの繰り返しになる。それだけは、幼心にも分かっていた。
「屋敷の者を、お救いしたまで」
短くそれだけ言うと、彼は脇差を鞘に納め、地に片膝をついた。争う気はないという、精一杯の意思表示であった。
家人の一人が、慌てて母屋へと駆けていった。「殿にお伝えせねば」という声が、闇の中に消えていった。
真澄はその場に留め置かれたまま、身じろぎ一つしなかった。
やがて、母屋の方から近づいてくる足音がした。一つだけ、急がず、ゆっくりと。周囲の家人たちが、道を空けるように後ろへ退いていく。
顔を上げた真澄の目に、その人影が映った。
――
木の縁を撫でていた指が、静かに止まった。
老人の背が消えた朝の記憶は、今もこの男の内に、小さな空白として残っているのであろう。我はしばし、その空白の輪郭を測りかねていた。行方を告げずに去った者の真意も、真澄がなぜあの夜、迷わず邸の内へ踏み込んだのかも、まだ判じ切れてはいない。
彼は指を離し、我の方へ視線を向けた。
「古い傷は、なかなか消えぬものでございます」
柱の傷を指してのことか、それとも別の何かか。問い返す術を、我は持たぬ。
老人が最後に残した「まだ早い」という一言の意味は、いまだこの男自身にも明かされてはいない。だが、その空白を抱えたまま歩き続けてきた歳月こそが、今の寡黙を作り上げたのだと、我にはそう思えてならなかった。




